楊貴妃( A.D.719〜A.D.756)
玄宗(唐)の寵妃。没落貴族の出身。玄宗(唐)の子・寿王(李瑁)の妃となったが、美貌と歌舞の才で玄宗(唐)の目に止まった。寿王と離別させられ、玄宗の寵愛を一身に集めた。国政が乱れ、安禄山が安史の乱を起こすと、兵に追われた玄宗の命令により楊貴妃は縊死させられた。白居易がこの悲劇的結末を主題とする長編詩「長恨歌」に描き、『源氏物語』などにも影響を与えた。
楊貴妃
玄宗が愛した「傾国の美女」
玄宗(唐)の寵妃。没落貴族の出身。玄宗(唐)の子・寿王(李瑁)の妃となったが、美貌と歌舞の才で玄宗(唐)の目に止まった。寿王と離別させられ、玄宗の寵愛を一身に集めた。国政が乱れ、安禄山が乱を起こすと、兵に追われた玄宗の命令により楊貴妃は縊死させられた。好物のライチを南方から運ばせた逸話が残る。
玄宗の寵愛を一身に集めた美女
玄宗(唐)の寵姫。はじめ寿王(李瑁)の妃に迎えられるが、武恵妃の死後、玄宗(唐)の求めに従い、いったん道士となったのち玄宗(唐)の後宮に入る。自身は政治には一切関与しなかった。安史の乱が起こり、玄宗(唐)に従い蜀へ逃れる途中、護衛の兵士たちの要求により絞め殺された。
東アジア世界の形成と発展
東アジア文化圏の形成
玄宗の政治と唐の衰退
玄宗(唐)の治世後半の天宝年間(742〜756)になると、玄宗自身も政治に飽き、気に入りの寵臣を重用し、愛妃楊貴妃との愛情生活におぼれるなど、政治の乱れが目立ってきた。寵臣のひとりソグド系の部将安禄山(705〜757)は、たくみに玄宗(唐)の信任をえて、北辺の3節度使(范陽・平盧・河東)を兼任するまでに出世した。
一方、朝廷では楊貴妃の一族の楊国忠が宰相として実権を握っており、玄宗(唐)の恩寵を安禄山と争って対立した。このため755年、安禄山は楊国忠打倒を掲げて突如挙兵し、たちまち洛陽・長安をおとしいれ、大燕皇帝と自称するにいたった。玄宗は蜀へ落ち延びたが、途中で部下の兵士の不満をなだめるため、最愛の楊貴妃に死を命じねばならなかった。
楊貴妃と「長恨歌」
「長恨歌」とは、白居易が玄宗(唐)と楊貴妃の恋愛とその悲劇的な結末を主題としてつくった叙事詩である。この詩は、発表と同時に大変な反響を呼び、白居易の代表作のひとつとされ、中国ばかりでなく、日本でも愛好されて、紫式部の『源氏物語』などの日本文学にも大きな影響を与えている。「眸を廻らしてひとたび笑えば百媚生じ、六宮の粉黛顔色無し」(視線をめぐらせて微笑めば百の媚態が生まれる。これには後宮の美女の化粧顔も色あせて見えるほどだ。)とうたわれた楊貴妃は中国史上第一の美女と讃えられているのである。楊貴妃は唐の時代を反映している樹下美人図や唐三彩にみられるようなタイプの美女の代表であった。