橘諸兄
A.D.684〜A.D.757
奈良時代の公卿。初名は葛城王。敏達天皇系皇親である大宰帥・美努王と橘三千代(県犬養三千代)の子。母・三千代(軽皇子の乳母)は、藤原不比等と再婚して光明子(のちの光明皇后)をもうけた。
藤原4兄弟の死後、唐の知識を身につけた玄昉、吉備真備らを起用し政権を握った。
橘諸兄
- 神亀6年(729年)長屋王の変後に行われた3月の叙位にて正四位下に、同年9月に左大弁に任ぜられる。
- 天平3年(731年)諸官人の推挙により藤原宇合・麻呂兄弟や多治比県守らとともに参議に任ぜられ公卿に列す。
- 天平8年(736年)弟の佐為王と共に母・橘三千代の氏姓である橘宿禰姓を継ぐことを願い許可され、臣籍にくだる。
- 天平9年(737年)天然痘の流行によって太政官の首班にあった右大臣・藤原武智麻呂ら政権を握っていた藤原四兄弟をはじめ、中納言・多治比県守ら議政官が次々に死去。橘諸兄が大納言となる。
- 天平10年(738年)右大臣となり、玄昉、吉備真備らを顧問に起用し聖武天皇を補佐する。
- 天平12年(740年)藤原広嗣の乱
- 天平12年(740年)諸兄の本拠地(山城国綴喜郡井手)にほど近い恭仁郷に整備した恭仁宮に遷都。
- 天平感宝元年(749年)に正一位に陞階。
孝謙天皇が即位すると、国母・光明皇后の威光を背景に、大納言兼紫微令・藤原仲麻呂に実権を奪われる。 - 翌天平勝宝8歳(756年)致仕。
- 天平勝宝9年(757年)1月6日薨去。74歳。
同年7月子息の奈良麻呂は橘奈良麻呂の乱を起こし獄死。
参考 Wikipedia