殷 (商朝) (紀元前16世紀頃〜紀元前11世紀)
現在確認できる最古の王朝。漢字の原型にあたる甲骨文字をつかい、農事・国事のすべてについて神意を占い、それにもとづいて王が万事を決定する、祭政一致の神権政治であった。紀元前1300年ころから300年間、現在の河南省安陽市小屯にあたる商(大邑商)に都を定めた(殷墟)。殷代初期に本格的な青銅器文化が開始され、極めて高度に発達した青銅器は殷王の権力と財力の大きさを示している。
殷
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殷の設立
黒陶文化の後期になると、黄河の中・下流域に、邑と呼ばれる集落が広く形成されるようになった。邑は、当初は土塁などをめぐらした小規模な集落で、その内部は、血縁関係によって結ばれた氏族共同体的な性格が強かったが、のちには、城壁で囲まれた 城郭都市的な形態のものへと発展していったと考えられる。このように邑が発展すると、やがて強力な邑 と弱小な邑の間に支配・服属の関係が生まれ、強力な邑の首長は、服属した多数の邑を支配する王となる。こうして、特定の王家が諸邑の上に君臨する王朝が成立したと考えられる。
伝説によれば、三皇五帝と呼ばれる聖王が世を治めた神話時代のあと、禹を開祖とする夏が中国最古の王朝とされるが、夏王朝の実在は確認できず、現在確認できる最古の王朝は殷(紀元前16世紀頃〜紀元前11世紀)である。
殷は、前期には都をしばしば移したが、その地点はだいたい河南・山東省の黄河両岸に位置している。
殷墟
紀元前1300年ころ、第19代の王盤庚は、現在の河南省安陽市小屯にあたる商(大邑商)に都を定め、以後滅亡までのおよそ300年間、遷都をおこなわなかった。1899年、この地で文字を刻んだ亀甲・獣骨が発見され、1928年よりおこなわれた発掘調査の結果、歴代王の墓などきわめて大規模な遺跡が発見され、殷の実在が確認されたのである。このため、この安陽市小屯の大邑商の遺跡を、一般に殷墟と称する。
文字
殷墟で発見された当時の文字は占いの内容を記したもので、亀の甲(主に腹甲)や牛の肩甲骨に刻まれていることから甲骨文字と呼ばれ、漢字の原型にあたるものである。
占いの方法は、亀甲や牛の肩甲骨を火であぶり、そこにできたひび割れの形状によって、神の意志を読み取るというもので、占いに使用した亀甲や獣骨には、占った日時や占いをおこなった者の名、占った事柄や占いの結果などが彫り込まれた。それはまた、中国最古の文献資料でもある。
当時の人々の考えた神は「帝」と記され、宇宙をつかさどる神であり、その意志によって未来が決定されるとした。そのため、天文気象から軍事行動の是非、災の有無など、あらゆることが占いの対象とされ、占いによって決定された。
殷王は、こうした占いの主宰者・祭司の長であり、殷の政治は、農事・国事のすべてについて神意を占い、それにもとづいて王が万事を決定する、祭政一致の神権政治であった。
甲骨文字の発見
黄河北岸の安陽市に住んでいた農民が、不思議な骨片を見つけた。これが薬屋の手に渡り、薬屋は粉にひいて、「竜骨」(漢方の薬)として売っていた。清朝の18〜19世紀には、古文字の研究が非常に進んでいた。たまたま、北京在住の清朝の大官王懿栄という人物の家に寄食していた学者劉鶚(劉鉄雲)は、粉末にする前の原料、すなわち骨片を見て、一驚した。そこに刻まれていた古拙な文字は、当時知られていた最古の文字よりも、もうひとまわり古い段階の文字であることを見抜き、現地で農民から骨片を買い取った。その場所は、のちにわかった殷墟であった。これを聞いた骨董屋たちも、彼のあとを追って買い出しに出かけ、これが北京の学者の手に入った。劉鶚は、この骨片の収集と研究に没頭し、『鉄雲蔵亀』という書物を出版し、驚くべき甲骨文字の存在を世に知らせたのである。
青銅器
また、殷代後期には青銅器がきわめて高度に発達し、複雑でこみいった模様の祭祀用の酒器や食器をつくりあげ、刀や斧、戈や矛(いずれもほこの一種)などの武器を鋳造した。
このほか、玉器や象牙製品も多数制作され、土器においても硬質で精巧な白陶がつくられた。このらの事物は、いずれも殷王の権力と財力の大きさを示している。
殷の青銅器
中国における本格的な青銅器文化の開始は、殷代初期である。殷代中期には、早くも高さ1mに達する大型の方鼎がつくられた。後期には文様も立体的になり、饕餮文が浮き出してくる。その鋳造法は、陶土でまず内型をつくり、さらにいくつもに分割した外型をつくる。その両型の空間に、溶かした銅を注入する。そのあとで型をくだいて青銅器を取り出すのである。したがって、ひとつの製品は、型は1回限りで、2度、3度と使用されるわけではないので、同一のものはない。この製法は、殷と周で完成された独自の技法である。ただ、この技法が、西アジアからもたらされたものではないかという説もあり、議論の余地はある。
国家形態
殷の国家形態は、諸邑の連合体ともいうべきもので、各邑にはそれぞれ首長(邑の支配氏族の族長)がおり、殷王と各邑の首長との間に支配・服属関係が結ばれることで、ゆるやかな連合体を形成していた。また、殷に服属した邑のなかでも強力なものは、他の弱小な邑を服属させている場合もあった。農地は各邑の周囲に広がっており、人民はそれぞれの邑の首長の統制に服していた。殷王は、邑の首長を通じて、これらの邑を間接的な支配・統制の下においていたのである。
周の制度と文化
周(紀元前11世紀〜紀元前256年)は陝西省の渭水盆地を本拠地とし、紀元前14世紀ころから、殷に服属する有力な邑の一つとなっていたが、殷の文化を摂取し、周辺の異民族を服属させるなど、しだいに国力を増していった。
紀元前11世紀、殷には暴君として名高い紂王(帝辛)が現れ、東方への遠征を重ねるなどして国政が混乱したため、文王(周)は東進して華北高原に進出し、文王の子武王(周)は、牧野の戦い(紀元前1027)で紂王の軍を破り、殷を滅ぼした。
望京楼遺跡
今から3600年前、中国最初の王朝夏を第2の王朝殷が攻め滅ぼした時の遺跡。夏から殷へ王朝後退を示す遺構。
多くの残虐された夏の人びとの遺骨が出土した。
青銅鉞(まさかり)
これほど角が鋭利な青銅器は夏王朝にはなかった。殷は、青銅の武器を大量に生産し、夏を一気に征服したことが伺える。
紀元前1600年頃、夏を滅ぼした殷は、軍事力で勢力範囲を拡大し500年以上に渡り栄える。
二里頭文化
鄭州市の二里岡文化(紀元前1600年頃 – 紀元前1400年頃)は、大規模な都城が発掘され、初期の商(殷)王朝(鄭州商城、建国者天乙の亳と推定)と同定するのが通説である。
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