毛利元就 もうりもとなり( A.D.1497〜A.D.1571)
安芸の国人出自の戦国大名。大内義隆に属していたが、義隆を倒した陶晴賢を厳島の戦いで討ち、ついで陶の傀儡主大内義長(大友宗麟の弟)・尼子義久らを滅ぼし、一地方の国人領主に過ぎなかった毛利氏を、中国の覇者にのし上げた。
毛利元就
応仁の乱に始まった戦国の争乱のなかから、各地方では地域に根をおろした実力のある支配者が台頭してきた。
安芸の国人、中国路に覇を唱える
山間の一国人から大名への道
毛利氏の所領は当初、安芸吉田盆地一帯のみだったが、のちには中国地方の13か国を領有するにいたる。一地方の国人領主に過ぎなかった毛利氏を、中国の覇者にのし上げたのが、毛利元就である。元就が家督を継いだとき、毛利氏は出雲の尼子氏と周防の大内氏という二大勢力にはさまれ、厳しい立場にあった。元就は両者がにらみあっているうちに、備後南部の竹原小早川氏に三男の隆景を、安芸の吉川氏には次男の元春を養子に送り込んだ。勢力伸長のための準備を着々と進めていったのである。その後、元春を強引に吉川家当主とし、沼田小早川氏の相続問題にも介入し隆景に家督を継がせた。毛利氏は安芸、備後、石見の3か国を勢力圏とする大名に成長したのである。
老練の知将、荒れ狂う厳島に布陣
1551年(天文20)、元就が従属していた大内義隆が、家臣の陶晴賢に殺害される。元就はここが好機と見た。晴賢は逆臣である。これを討つのなら大義名分もたつ。しかし、晴賢は当時、陸戦では右に出る者がないといわれた戦上手。陸戦ではかなわない。そこで元就は、厳島に晴賢を誘い出し、海戦での勝負に賭けた。晴賢は元就の計略によって、厳島に上陸、布陣した。これを見た毛利軍は嵐の中を出発、夜明け前の間にまぎれて、晴賢軍を急襲。晴賢軍はたちまち混乱に陥り、晴賢は自害、元就の完勝であった。その後、晴賢に擁立された大内義長を自刃させた元就の残る敵は、尼子氏であった。1560年(永禄3)に尼子晴久が没し、尼子義久があとを継ぐと、元就は尼子氏を攻撃、降伏させる。元就はついに中国地方の覇者となった。
元就は戦国人名特有の分国法(支配領国のみ有効な法令)は制定しなかったが、一族と家臣団・国衆の統制に優れ、内部からの反乱はほとんど出なかった。家中から信頼され、大勢力を築き上げるにいたったのである。
参考 ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
武家社会の成長
戦国大名の登場
戦国大名
中国地方では守護大名として強勢を誇った大内義隆(1507〜51)が、16世紀半ばに重臣陶晴賢(1521〜55)に国を奪われ、さらに安芸の国人からおこった毛利元就(1497〜1571)が陶氏を滅ぼして大内氏の旧領を奪った ❶。毛利氏は山陰地方の尼子氏とも激しい戦闘を繰り返しながら、中国地方に勢力を広げていった。そのほか四国に長宗(曽)我部氏、九州には大友氏・竜造寺氏・島津氏などの諸氏、東北には伊達氏など、各地に有力大名が独自の分国を形成して争いを続けた。
参考 詳説日本史研究
毛利氏が支配した主な城
- 安芸国: 吉田郡山城, 多治比猿掛城, 壬生城, 船山城, 長見山城, 三入高松城, 鳥籠山城, 八木城, 己斐城, 佐東銀山城, 桜尾城, 宮尾城, 草津城
- 長門国: 且山城
- 備後国: 高山城, 新高山城, 三原城, 旗返城
- 備中国: 備中高松城, 備中松山城
- 周防国: 鴻之峰城
- 出雲国: 月山富田城, 三刀屋城, 洗骸城
- 石見国: 山吹城, 温湯城, 福光城, 益田城, 津和野城
- 因幡国: 鳥取城
- 播磨国: 上月城
- 豊前国: 門司城, 豊前松山城
- 筑前国: 立花山城
参考 Wikipedia