氏姓制度
5世紀末〜646年(大化の改新 )までの政治制度。
豪族は血縁関係などをもとに「氏」を組織し、大王から「姓」を与えられてヤマト政権の職務を分担した。中央の政治は臣・連の姓から大臣・大連が任命され担当した。その下に伴造が伴・品部とよばれる集団を率いてヤマト政権の職掌を分担した。6世紀には地方豪族は国造に任命され、ヤマト政権の屯倉(直轄領)、名代、子代の部(直属民)を管理した。
参考 新詳日本史―地図資料年表
氏姓制度
古墳とヤマト政権
氏姓制度
ヤマト政権は、5世紀末から6世紀にかけて、氏姓制度と呼ばれる支配体制をつくりあげていった。
豪族は、氏に編成された。
氏とはヤマト政権の生み出した政治・社会組織であり、支配者層に特有の集団である。氏は多くの家によって構成され、その首長的地位にある氏上が中心となり、それに直系・傍系の血縁者や、非血縁者の家などが所属していた。氏上は氏の代表として氏人を率い、ヤマト政権の構成員となり、それぞれの氏に特有の職掌や地位を通じて、政治に参与した。大王は、それぞれの氏の政治的地位や性格に応じて、姓を授け、氏を統制した。
豪族は、田荘と呼ばれる私有地や、部曲と呼ばれる私有民を各地に領有して、経済的・軍事的基盤とした。部曲は、それを領有する豪族の名を付して、曽我部・大伴部などと呼ばれた。氏やその内部の家は、奴(奴婢)と呼ばれる隷属民も所有し、労役に使用した。
氏の名は、葛城・平群・巨勢・蘇我など本拠地の地名を冠したものと、大伴・物部・土師・中臣・膳など職掌に基づくもの(伴造的豪族)とがあり、後者の方が古くから成立したといわれる。
姓の起源は、人命に付した彦・根子・君・別・宿禰などの尊称で、政治制度としての姓は、5世紀末から6世紀にかけて、ヤマト政権から賜ることによって成立した。
姓は必ずしも大王家との血縁や出自を基準にして授けられたわけではなく、賜姓時の政治的地位や職掌に基づくものと考えられる。
姓には、臣・連・君・直・造・首・史などがある。
臣は葛城・蘇我・吉備・出雲などヤマト政権を構成する有力豪族や地方の有力豪族に、連は大伴・物部・中臣など特定の職掌・地位をもってヤマト政権を支える有力伴造豪族に、君は筑紫・毛野など地方の有力豪族に、直は凡河内など国造に任じられた地方豪族に、造は衣縫・穴穂部など伴造の首長に、首は海部・西文・志紀など伴造豪族、渡来系豪族、県主に任じられた地方豪族に、それぞれ授けられた。
これらのうち、臣・連の二つの姓を賜った豪族が、ヤマト政権の中枢を形成した。
臣姓豪族のうち、葛城・平群・巨勢・蘇我氏は大臣に任じられたという伝承をもち、連姓豪族のうち、大伴・物部氏は大連に任じられたと伝えられる。
また、大伴・物部氏が任じられたと伝えられる大連も、氏族内における敬称と考える説もある。
ヤマト政権における政務や祭祀などのさまざまな職務は、伴造とよばれる豪族や、その配下にあった伴とよばれる氏人の集団によって分掌された。
5世紀末から6世紀にかけて、中国南朝の高い技術や知識を導入していた百済からドライする人々が急増したが、ヤマト政権は、彼らを百済の部司制を模した品部に編成し、伴造の統率下でさまざまな物資や専門的労働力を貢上させた。
品部は、その職掌に応じて、韓鍛冶部・錦織部・陶作部・玉造部・忌部・史部などとよばれた。
同じころ、ヤマト政権は地方に対する支配を強め、地方豪族の領域内の農民の一部を、名代・子代の部という直轄民とした。
これは長谷部・春日部・額田部・刑部など、設置された時の王族や宮の名を負っていた。
また、屯倉大王家のちょよばれる大王家の直轄領を、畿内、ついで畿外各地に設定した。屯倉の経営は、中央から監督者が派遣され、屯倉周辺の農民を田部として徴発し、その徭役労働によって耕作が行われるというものであった。
一方、初期のヤマト政権では、ヤマト政権に服属した地方の地域共同体のうち、重要視されたものが県とされ、その首長が県主と称されていた。
5世紀末から7世紀初頭にかけて、それに変わる地方支配体制として順次設定されたのが、国造制である。
それまで地方を統治していた各地域の優勢な豪族が国造に任命されたが、国造の数は最終的には百数十に達したとみられる。
国造は、自らの統治権を認められる代わりに、ヤマト政権に対して、子弟(舎人・靭負として)・子女(采女として)の出仕、地方特産物や馬・兵士の貢上などを行った。
また、屯倉や部民を管理する伴造職を兼務したり、国造軍を統率してヤマト政権の遠征に参加したりした。