氏姓制度 古墳とヤマト政権 3「古墳とヤマト政権」まとめ2/2
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氏姓制度

5世紀末〜646年(大化の改新 )までの政治制度。
豪族は血縁関係などをもとに「氏」を組織し、大王から「かばね」を与えられてヤマト政権の職務を分担した。中央の政治はおみむらじの姓から大臣・大連が任命され担当した。その下に伴造とものみやつこが伴・品部とよばれる集団を率いてヤマト政権の職掌を分担した。6世紀には地方豪族は国造くにのみやつこに任命され、ヤマト政権の屯倉みやけ(直轄領)、名代、子代の部(直属民)を管理した。

参考 新詳日本史―地図資料年表

氏姓制度

古墳とヤマト政権 氏姓制度

古墳とヤマト政権

氏姓制度

ヤマト政権は、5世紀末から6世紀にかけて、氏姓制度と呼ばれる支配体制をつくりあげていった。
豪族は、うじに編成された。
氏とはヤマト政権の生み出した政治・社会組織であり、支配者層に特有の集団である。氏は多くの家によって構成され、その首長的地位にある氏上うじのかみが中心となり、それに直系・傍系の血縁者や、非血縁者の家などが所属していた。氏上は氏の代表として氏人を率い、ヤマト政権の構成員となり、それぞれの氏に特有の職掌や地位を通じて、政治に参与した。大王は、それぞれの氏の政治的地位や性格に応じて、かばねを授け、氏を統制した。

豪族は、田荘たどころと呼ばれる私有地や、部曲かきべと呼ばれる私有民を各地に領有して、経済的・軍事的基盤とした。部曲は、それを領有する豪族の名を付して、曽我部そがべ大伴部おおともべなどと呼ばれた。氏やその内部の家は、やっこ奴婢ぬひ)と呼ばれる隷属民も所有し、労役に使用した。

氏の名は、葛城かずらき平群へぐり巨勢こせ蘇我そがなど本拠地の地名を冠したものと、大伴・物部もののべ土師はじ中臣なかとみかしわでなど職掌に基づくもの(伴造とものみやつこ的豪族)とがあり、後者の方が古くから成立したといわれる。

かばねの起源は、人命に付したひこ根子ねこきみわけ宿禰すくねなどの尊称で、政治制度としての姓は、5世紀末から6世紀にかけて、ヤマト政権から賜ることによって成立した。
姓は必ずしも大王家との血縁や出自を基準にして授けられたわけではなく、賜姓時の政治的地位や職掌に基づくものと考えられる。

姓には、おみむらじきみあたえみやつこおびとふひとなどがある。
臣は葛城・蘇我・吉備・出雲などヤマト政権を構成する有力豪族や地方の有力豪族に、連は大伴・物部・中臣など特定の職掌・地位をもってヤマト政権を支える有力伴造とものみやつこ豪族に、君は筑紫・毛野けぬなど地方の有力豪族に、直は凡河内おおしこうちなど国造くにのみやつこに任じられた地方豪族に、造は衣縫きぬぬい穴穂部あなほべなど伴造とものみやつこの首長に、首は海部あまべ西文かわちのふみ志紀しきなど伴造とものみやつこ豪族、渡来系豪族、県主あがたぬしに任じられた地方豪族に、それぞれ授けられた。

これらのうち、の二つの姓を賜った豪族が、ヤマト政権の中枢を形成した。
臣姓豪族のうち、葛城かずらき平群へぐり巨勢こせ蘇我そが氏は大臣おおおみに任じられたという伝承をもち、連姓豪族のうち、大伴・物部もののべ氏は大連おおむらじに任じられたと伝えられる。

大臣に任じられたという伝承をもつ葛城かずらき平群へぐり巨勢こせ蘇我そが氏のうち、蘇我氏以外は史実ではないとする説が有力である。
また、大伴・物部氏が任じられたと伝えられる大連も、氏族内における敬称と考える説もある。

ヤマト政権における政務や祭祀などのさまざまな職務は、伴造とものみやつことよばれる豪族や、その配下にあったともとよばれる氏人の集団によって分掌された。
5世紀末から6世紀にかけて、中国南朝の高い技術や知識を導入していた百済からドライする人々が急増したが、ヤマト政権は、彼らを百済の部司制ぶしせいを模した品部しなべに編成し、伴造とものみやつこの統率下でさまざまな物資や専門的労働力を貢上させた。
品部は、その職掌に応じて、韓鍛冶部からかぬちべ錦織部にしごりべ陶作部すえつくりべ玉造部たまつくりべ忌部いんべ史部ふひとべなどとよばれた。

同じころ、ヤマト政権は地方に対する支配を強め、地方豪族の領域内の農民の一部を、名代なしろ子代こしろの部という直轄民とした。
これは長谷部はつせべ春日部かすかべ額田部ぬかたべ刑部おさかべなど、設置された時の王族や宮の名を負っていた。
また、屯倉みやけ大王家のちょよばれる大王家の直轄領を、畿内、ついで畿外各地に設定した。屯倉の経営は、中央から監督者が派遣され、屯倉周辺の農民を田部たべとして徴発し、その徭役ようえき労働によって耕作が行われるというものであった。

一方、初期のヤマト政権では、ヤマト政権に服属した地方の地域共同体のうち、重要視されたものがあがたとされ、その首長が県主あがたぬしと称されていた。
5世紀末から7世紀初頭にかけて、それに変わる地方支配体制として順次設定されたのが、国造くにのみやつこである。
それまで地方を統治していた各地域の優勢な豪族が国造くにのみやつこに任命されたが、国造くにのみやつこの数は最終的には百数十に達したとみられる。
国造くにのみやつこは、自らの統治権を認められる代わりに、ヤマト政権に対して、子弟(舎人とねり靭負ゆげいとして)・子女(采女うぬめとして)の出仕、地方特産物や馬・兵士の貢上などを行った。
また、屯倉みやけや部民を管理する伴造とものみやつこ職を兼務したり、国造くにのみやつこ軍を統率してヤマト政権の遠征に参加したりした。

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