永嘉の乱 (316年)
中国西晋末に起こった異民族による反乱である。懐帝(西晋)の年号である永嘉(307年〜312年)から呼ばれているが、この反乱が実質的に開始されたのは304年かそれ以前であり、一応の終焉を見せたのは316年である。この乱により西晋は滅亡し、五胡十六国時代に突入した。
永嘉の乱
東アジア世界の形成と発展
北方民族の活動と中国の分裂
分裂の時代
魏の帝室は曹丕(文帝)ののち、一族の間での争いからしだいに力を失い、かわって勢力を蓄えたのは司馬氏であった。蜀を滅ぼして2年後、魏の将軍司馬炎は皇帝の位について(武帝)晋(西晋)を建国した。
司馬炎(武帝)は洛陽を都とし、280年には江南の呉を滅ぼして中国を統一した。武帝は、権力の維持にあたって一族を各地に王として報じ、軍権を与えるなど大きな権力をもたせて、帝室の守りにしようとしたが、かえって皇帝の権力を弱めることになった。
八王の乱
武帝のあと恵帝(西晋)が即位すると、これらの諸侯は外戚の政権争いに乗じて皇帝の後継者をめぐる争いを始めた(八王の乱)。
さらに官僚たちの間では、実際の役に立たない議論をたたかわせるばかりで国家の危機的状況をかえりみない風潮(清談の風)がおこった。八王の乱のなかで兵力として活躍したのは、中国内地に住みついていた北方や西方からの遊牧民であり、これらが勢力をのばして各地で自立をはかり、晋の支配をくつがえした。
永嘉の乱
魏・晋代に今の山西の地に住み着いていた南匈奴は、漢人とは異なった遊牧を中心とする生活を送っていた。また、陝西〜甘粛にかけては、氐や羌などの諸民族が住みついていた。このうち、まず山西の南匈奴が優勢となり、都の洛陽を攻略し、ついで長安を攻めて皇帝を捕虜にし西晋を滅ぼした(316・永嘉の乱)。
その子の劉聡のとき、洛陽を陥れて懐帝(西晋)を捕虜にし(311年)、316年には長安の愍帝(西晋)を降ろして西晋を滅ぼした。こうして華北は五胡十六国時代に入り、漢人豪族のひきいる流民集団は時に塢と呼ばれる城塞をつくって自営したり、江南に復興した東晋政府を頼って南に移住したりした。このような時代を背景に、東晋の詩人陶淵明は『桃花源記』で、戦乱を避け山中で自給自足の生活を送る集落を理想化して描いている。
東晋の建国
このため江南の軍司令官であった司馬氏の王族のひとり司馬睿は、317年かつての呉の都であった建業(建康と改称)で皇帝の位につき(元帝(東晋))、晋を復興した。これを統一時代の晋(西晋)と区別して東晋(317〜420)という。
影響
華北ではこれ以降、その端緒は先の劉淵による漢の建国ではあったが、本格的に五胡十六国時代が始まることとなる。
結果として、劉淵は五部匈奴を率いて自立、漢を打ち立て河間から中原にかけて強力な勢力となり、関中の首都圏一帯を制圧することで西晋を直接崩壊に導き、協力者石勒は主に関東を攻略し、318年に劉聡が死去して内乱が起こったのを契機として、翌年に後趙を建国した。
また、西晋の支配力低下と、西晋側からの(少なくともその一部の刺史から)救援要請を受けた鮮卑族の拓跋部・慕容部も中国本土に南下し、それぞれ代、前燕を樹立、一方でこの戦乱を逃れて益州に避難した難民達が現地で成漢を建国、同じく涼州刺史として戦乱を避けるため西域に赴任した張軌は涼を建国、数年のうちに華北には6つ以上の王国が並び立つ状態となった。
そして異民族の侵入を免れた華南では、西晋の皇族である司馬睿(元帝(東晋))によって東晋が建国された。
以後300年間、中国大陸は異民族から漢人を含む複数の政権に分裂し、離合集散を繰り返すことになる。