法然 ほうねん( A.D.1133〜A.D.1212)
浄土宗開祖。教義:専修念仏(阿弥陀の本願にすがる念仏は易行であるが、往生の唯一の方法としてひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えることが必要)。布教対象:京都周辺の公家・武士。主著:『選択本願念仏集』『一枚起請文』。中心寺院:知恩院(京都)。死後、隆寛の長楽寺派、覚明の九品寺派、証空の西山派など多くの流派に分かれ、これらを総称して浄土宗という。浄土宗から親鸞の浄土真宗、一遍の時宗が生まれた。なお法然の主著『選択本願念仏集』は彼に教えを請うた九条兼実のために書かれたといわれ、浄土宗の本旨を明らかにしている。
法然
専修念仏を唱道し、民衆の救済を説いた浄土宗の開祖
阿弥陀仏の本願により広く衆生を救済
平安時代、仏教は一部の上流階級が独占するものだった。民衆に救いのてだてはなかった。しかし鎌倉時代になり、貴族より民衆に近い立場の武士が権力者となる。
末代と呼ばれた時代に生きた法然が、救済のために到達した教えは「阿弥陀仏の本願にすがって極楽に往生する。そのためにただ一心に『南無阿弥陀仏』と念仏を唱える(専修念仏)』とというものだった。法然は民衆に救済を説いた初めての宗教者となったのである。
法然はその少年期、過酷な運命に翻弄されている。美作国稲岡荘押領使であった父が、夜襲を受け殺されたのだ。悲劇の中、法然は仏教と出会う。その後、比叡山に登り修行を積んだが、極楽往生できるのは僧侶や貴族だけという教えに疑間を抱き山を降り、浄土宗を開いた。
念仏を唱えれば救われるという、わかりやすい法然の教えは多くの階層に受け入れられ、各地に広まる。民衆だけでなく、九条兼実などの貴族も法然に帰依した。しかし、あまりの信徒の増大ぶりに、天台宗や奈良仏教の旧仏教勢力は法然を敵視するようになる。さらに門弟が院の官女を出家させたことに後鳥羽上皇が激怒、1207(承元1)年、法然は土佐に流された。
1211年(建暦1)、帰洛を許された法然は再び京の土を踏み、東山に暮らしたが、翌年大往生を遂げた。
ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
中世社会の成立
鎌倉文化
鎌倉仏教
法然と浄土宗
法然(1133〜1212)は美作の稲岡荘の押領使の子として生まれた。13歳で比叡山にのぼって天台を学び、源信の流れをくむ叡空(?〜1179)について念仏の門に入り、法然房源空と名乗った。彼はやがて、 南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば(口称念仏)、誰でも極楽浄土に往生できるとの悟りに達した。異なる念仏観をもっていた師の叡空と対立し、43歳のときに比叡山を下り、念仏だけに専修念仏の救いを説いた。当時の仏教は、仏像や寺院をつくること、難解な教義を学び厳しい戒律を守ることを求めていた。けれども法然は、念仏さえ唱えれば経済的負担も学問も戒律も必要ではなく、 日常生活を営みながら信仰生活が送れるとした。彼には新しい宗派を開く意志も従来の仏教のあり方を糾弾する意志もなかつたが、平易なその教えに人々が帰依するのをみて、旧仏教側は激しい迫害を始めた。そのため1207(承元元)年に讃岐に流され、門弟たちも処罰された(承元の法難)。ほどなく許されて帰京し、東山の大谷の地で死去した。彼の死後、門弟たちは多くの流派に別れて教えを広めた。隆寛(1148〜1227)の長楽寺派、覚明(1271〜1361)の九品寺派、証空(1177~1247)の西山派などであり、これらを総称して浄土宗という。浄土宗から親鸞の浄土真宗、一遍の時宗が生まれた。なお法然の主著『選択本願念仏集』は彼に教えを請うた九条兼実のために書かれたといわれ、浄土宗の本旨を明らかにしている。
鎌倉仏教
系統 | 浄土宗系(他力本願) | 天台宗系 | 禅宗系(不立文字) | |||
念仏 (南無阿弥陀仏) | 題目 (南無妙法蓮華経) | 禅 | ||||
宗派 | 浄土宗 | 浄土真宗 | 時宗 | 日蓮宗 | 臨済宗 | 曹洞宗 |
開祖 | 法然 | 親鸞 | 一遍 | 日蓮 | 栄西 | 道元 |
教義 | 専修念仏 | 一向専修 悪人正機 | 踊念仏 賦算 | 題目唱和 | 坐禅 公案 (禅問答) | 只管打坐 |
布教対象 | 京都周辺の 公家・武士 | 関東、のちに 北陸・東海・ 近畿の 武士・農民、 とくに下層農民 | 全国の武士・ 農民層 | 下級武士・ 商工業者 | 京・鎌倉の 上級武士、 地方の 有力武士 | 地方の 中小武士・ 農民 |
主著 | 選択本願念仏集 一枚起請文 | 教行信証 歎異抄 | 一遍上人語録 | 立正安国論 開目抄 | 興禅護国論 喫茶養生記 | 正法眼蔵 正法眼蔵随聞記 |
中心寺院 | 知恩院(京都) | 本願寺(京都) | 清浄光寺(神奈川) | 久遠寺(山梨) | 建仁寺(京都) | 永平寺(福井) |