玄宗(唐) A.D.685〜A.D.762
唐の第6代皇帝(在位712年9月8日 - 756年8月12日)。韋后一派を倒し、父睿宗(唐)を復位させ、のち禅譲されて即位した。治世前半は律令体制のたて直しに励み安定をもたらしたが、晩年楊貴妃を寵愛し楊国忠らの専横を許して安史の乱を招き、唐衰退のきっかけを作った。
玄宗(唐)
唐の第6代皇帝(在位712年9月8日 - 756年8月12日)。韋后一派を倒し、父睿宗(唐)を復位させ、のち禅譲されて即位した。治世前半は律令体制のたて直しに励み安定をもたらしたが、晩年楊貴妃を寵愛し楊国忠らの専横を許して安史の乱を招き、唐衰退のきっかけを作った。
楊貴妃に溺れて安史の乱を招く
則天武后の孫。本名は李隆基。中宗(唐)が韋后と安楽公主に毒殺されてから19日後、臨淄王李隆基は太平公主と組んで政変を起こし、韋后と安楽公主を誅殺。父の李旦を即位させ、自らは皇太子となり、2年後、旦が退位するとともに27歳で即位した。翌年には謀反を企てた太平公主とその一味を誅殺して完全に実権を掌握。姚崇・宋璟ら有能な人材を任用し、官界の粛清をはじめ内政の刷新に努めたことから、時の年号をとって開元の治という華やかな時代が幕を開けた。最盛時の長安の人口は100万人を超えたともいわれる。
しかし、治世の後半は政治への興味を失い、表向きのことは宰相の李林甫、後宮のことは宦官の高力士に任せた。自身は女色に溺れて管弦や宴遊に耽り、はじめ武恵妃と、その死後は楊貴妃と愛欲生活を送り、李林甫の失脚後は楊国忠ら楊貴妃の一族を重用した。安史の乱が起こると、都落ちを余儀なくされた。
「開元の治」から楊貴妃との愛欲生活へ
玄宗(唐)の本名は李隆基。伯父の中宗(唐)が韋后一派に殺されると、クーデターを起こし、父・睿宗(唐)を即位させ、自らは皇太子となった。帝位に就いたのは27歳。年号を「開元」とした。
玄宗は張九齢ら有能な人材を登用し、数々の改革を行なった。徴兵制による兵の不足から「募兵制」を始め、辺境地域の募兵指揮官には「節度使」を置いた。また有力者への土地集中問題が顕著になってくると、これを改善するなど唐(王朝)政治を立て直した。こうした善政は「開元の治」と呼ばれた。
玄宗(唐)は学者を重用し、学問所や直属の文化機関を建設。芸能養成所の「梨園」をつくり、唐(王朝)文化は全盛期を迎えた。
ところが、後半の治世、宰相に李林甫を任じた頃から政治が乱れ始めた。愛妃・武恵を亡くした玄宗(唐)は息子・寿王の妃である楊をみそめる。玄宗は寿王と楊を離婚させ、楊を自分の後宮に入れてしまう。琵琶の名手・楊に玄宗は夢中になり、愛欲と宴遊に溺れる。60歳の玄宗は26歳の楊を、皇后に次ぐ「貴姫」とし、楊国忠ら楊一族を厚遇した。
楊国忠の専横に対し、安禄山が反乱を起こし、長安を占領されると、玄宗は側近たちと逃亡。楊貴妃は殺され、玄宗は退位した。晩年は長安に戻ったが幽閉同然の生活を送った。
東アジア世界の形成と発展
東アジア文化圏の形成
玄宗の政治と唐の衰退
韋后を倒して即位した玄宗(唐)は、治世の前半は意欲的に政治に取り組み、開元の治と称される唐(王朝)全盛期をもたらした。都の長安は空前の賑わいを見せ、文化は爛熟期を迎えた。しかし、この繁栄の裏側では深刻な社会問題が発生しており、律令体制のほころびが明らかになっていたのである。
その第一は、均田農民の没落である。前述のように均田農民にとって府兵の負担はきわめて重く、すでに則天武后のころから、均田農民が土地を捨てて逃亡する逃戸の増加が問題となっていた。このため開元中期には、逃戸をあらたに戸籍につける括戸と呼ばれる政策が財務官僚宇文融によって推進されたが、結局は挫折に終わった。こうして府兵制は、開元後期には実質的に崩壊し、740年に完全に停止され、健児と呼ばれる職業兵士を雇用する 募兵制に移行した。
第二には、服属民族の唐朝に対する反抗・自立の動きが活発化し、羈縻政策が破綻したことである。このため、辺境を強力な軍事力によって防衛する必要が生じ、十節度使(藩鎮)が設置された。
十節度使:睿宗(唐)の710年の河西節度使の設置にはじまり、玄宗(唐)の721年までに安西・北庭・隴右・朔方・河東・范陽・平盧・剣南・嶺南の各節度使が設置された。なお節度使を長官とする軍事・行政機構全般を藩鎮と呼ぶ。
節度使は、辺境防衛のため、兵権のみならず、管轄区域の民政権・財政権もあわせもつという強大な権限を委ねられていた。また751年、タラス河畔の戦いで高仙芝率いる唐軍がアッバース朝の軍隊に大敗した事件は、唐(王朝)の対外的な退勢を明らかに示すものであった。
玄宗(唐)の治世後半の天宝年間(742〜756)になると、玄宗自身も政治に飽き、気に入りの寵臣を重用し、愛妃楊貴妃との愛情生活におぼれるなど、政治の乱れが目立ってきた。寵臣のひとりソグド系の部将安禄山(705〜757)は、たくみに玄宗(唐)の信任をえて、北辺の3節度使(范陽・平盧・河東)を兼任するまでに出世した。
一方、朝廷では楊貴妃の一族の楊国忠が宰相として実権を握っており、玄宗(唐)の恩寵を安禄山と争って対立した。このため755年、安禄山は楊国忠打倒を掲げて突如挙兵し、たちまち洛陽・長安をおとしいれ、大燕皇帝と自称するにいたった。玄宗は蜀へ落ち延びたが、途中で部下の兵士の不満をなだめるため、最愛の楊貴妃に死を命じねばならなかった。
玄宗と楊貴妃の恋愛とその悲劇的結末を主題とする長編詩が白居易の「長恨歌」であり、日本でも愛好され、『源氏物語』などにも影響を与えている。
楊貴妃と「長恨歌」
「長恨歌」とは、白居易が現像と楊貴妃の恋愛とその悲劇的な結末を主題としてつくった叙事詩である。この詩は、発表と同時に大変な反響を呼び、白居易の代表作のひとつとされ、中国ばかりでなく、日本でも愛好されて、紫式部の『源氏物語』などの日本文学にも大きな影響を与えている。「眸を廻らしてひとたび笑えば百媚生じ、六宮の粉黛顔色無し」(視線をめぐらせて微笑めば百の媚態が生まれる。これには後宮の美女の化粧顔も色あせて見えるほどだ。)とうたわれた楊貴妃は中国史上第一の美女と讃えられているのである。楊貴妃は唐の時代を反映している樹下美人図や唐三彩にみられるようなタイプの美女の代表であった。
この反乱は、安禄山の死後、子の安慶緒、さらに部将史思明父子によって継続されたため、安史の乱と称され、約9年におよぶ大乱となったが、ウイグルの援助などにより、ようやく鎮圧された。しかし、安史の乱は唐(王朝)繁栄を一挙にくつがえし、唐(王朝)の政治・経済・社会の各方面に重大な変化をもたらした。
同時代の人物
阿倍仲麻呂(698〜770)
阿倍仲麻呂は、奈良時代の文人。20歳のときに遣唐使として大陸に渡る。玄宗(唐)のもとで数々の官職を歴任。李白・王維ら一流の詩人たちと親交を結び、京都の長安で没した。