異国船打払令
A.D.1825〜
清・蘭船以外は二念なく(ためらうことなく)撃退することを命じた法令。無二念打払令ともいう。フェートン号事件につづく1818年のイギリス人ゴルドンの通商要求、24年の常陸大津浜・薩摩宝島でのイギリス捕鯨船暴行事件などに対する対応措置。
異国船打払令
清・蘭船以外は二念なく(ためらうことなく)撃退することを命じた法令。無二念打払令ともいう。フェートン号事件につづく1818年のイギリス人ゴルドンの通商要求、24年の常陸大津浜・薩摩宝島でのイギリス捕鯨船暴行事件などに対する対応措置。
幕藩体制の動揺
幕府の衰退
列強の接近
北方での緊張に加え幕府に衝撃を与えたのが、フェートン号事件である。1808(文化5)年、イギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入し、オランダ商館員を人質にとって、薪水・食糧を強要した。この事件で、長崎奉行の松平康英(1768〜1808)は責任をとって自害し、長崎警護の役を負っていた佐賀藩主は、警備怠慢の責任を問われ、処罰された。幕府はこれらの事件を受けて、1810(文化7)年、寛政の改革以来の懸案であった江戸湾の防備に着手し、白河・会津両藩に命じた。
その後もイギリス船は、1817(文化14)年、1818(文政元)年、1822(文政5)年に浦賀に来航し、1824(文政7)年には、常陸大津浜に上陸した捕鯨船員及び捕鯨船と交易を繰り返していた漁民を水戸藩が捕え、さらに同じ年、捕鯨船員が薩摩藩領宝島に上陸し、掠奪する事件もおこった。それまで幕府は外国船を穏便に扱い、薪水・食糧を与えて帰国させる方針をとっていたが、1825(文政8)年、異国船打払令(触書に「二念無く打払ひを心掛け」という文言があることから無二念打払令ともいう)を出し、日本沿岸に来航する外国船を撃退するよう命じた。この方針変更に大きな影響を与えたのは、幕府の天文方の高橋景保(1785-1829)で、来航するイギリス船は長期間の操業により食糧、薪水に欠乏した捕鯨船なので、威嚇すれば来なくなること、放置するとキリスト教布教の恐れがあることなどを説いた。外国船の来航を武力によって防止し、外国人と日本の民衆との接触を阻止しようとした政策であった。
欧米列強の勢力が日本近海に迫っているときに、この強硬策は、きわめて危険な政策であった。1837(天保8)年、外国船が浦賀に来航し、浦賀奉行所は異国船打払令にしたがって砲撃し、退去させた。翌年、オランダ商館長は、外国船はイギリス(実はアメリカの商船で誤って伝えた)のモリソン号で、漂流民の送還を兼ねて日本との通商を交渉する目的で来航したという情報を伝えた。漂流民を送還してきた外国船を、その来航の目的も問わずに打ち払ったことから、三河国田原藩家老で洋学者の渡辺崋山(1793〜1841)は『慎機論』を陸奥水沢出身の医師で洋学者の高野長英(1804〜50)は『戊戌夢物語』を書いて、日本を取り巻く国際情勢から、幕府の打払い政策を厳しく批判した。幕府は、1808(文化5)年の白河・会津両藩による江戸湾防備の体制をすでに廃止していたが、モリソン号事件を契機に再び江戸湾防備の検討を始めた。幕府は、洋学者で伊豆韮山代官の江川太郎左衛門(坦庵 1801〜55)と洋学に反感をもつ目付の烏居耀蔵(1796〜1873)に別々に調査と立案を命じた。この過程で生じた軋礫もあって鳥居らは尚歯会に集まる洋学者の弾圧に乗り出し、渡辺・高野らが無人島(小笠原諸島)への渡海を計画していたとして逮捕し、モリソン号事件に関する幕政批判の罪で、渡辺華山を国元での永蟄居、高野長英を永牢などに処した。これを蛮社の獄と呼んでいる。
列強の接近と幕府の対応
徳川 | 列強の接近 | 元号 | 幕府の対応 | |||
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家治 | 1778〜79 | 露 | ナタリア号が、蝦夷地に来航 (通商を求めたが松前藩は拒否) | 天明 | 1783 | 工藤平助の『赤蝦夷風説考』の意見採用 |
1784 | 田沼意次による蝦夷地開拓を計画 | |||||
1786 | 最上徳内を蝦夷地へ派遣 | |||||
家斉 | 1792 | 使節ラクスマン根室に来航。漂流民(大黒屋光太夫ら)を伴い、エカチェリーナ2世の命で通商を要求 (幕府は通商を拒絶。長崎入港を許可する証明書〈信牌〉を渡し、帰国させる) | 寛政 | 1792 | 林子平が『三国通覧図説』『海国兵談』で海防を説いたことを幕府批判として処罰 | |
1798 | 近藤重蔵・最上徳内ら、択捉島を探査(「大日本恵土呂府」の標柱をたてる) | |||||
1799 | 東蝦夷地を直轄地とする | |||||
1800 | 伊能忠敬、蝦夷地を測量 | |||||
1804 | 使節レザノフ、長崎に来航 (通商を要求するが、幕府は拒絶) | 文化 ・ 文政 | 1806 | 文化の撫恤令(親水給与令) | ||
1807 | 松前藩と蝦夷地をすべて直轄(松前奉公の支配下のもとにおき、東北諸藩を警護にあたらせる)。近藤重蔵、西蝦夷地を探査 | |||||
1808 | 英 | フェートン号事件 (英軍艦フェートン号、長崎に侵入) | 1808 | 間宮林蔵、樺太とその対岸を探査(間宮海峡の発見) | ||
1810 | 白河・会津両藩が江戸湾防備を命じられる | |||||
1811 | 露 | ゴローウニン事件 (露軍艦長ゴローウニン、国後島に上陸して捕らえられ、函館・松前に監禁) | 1813 | 高田屋嘉兵衛の送還でゴローウニンを釈放 | ||
1821 | 蝦夷地を松前藩に還付 | |||||
1824 | 英 | 英船員、大津浜に上陸(常陸) 英船員、宝島に上陸(薩摩) | 1825 | 異国船打払令(無二念打払令) | ||
1828 | シーボルト事件 | |||||
家慶 | 1837 | 米 | モリソン号事件 (米船モリソン号、浦賀と山川で砲撃される) | 天保 | 1839 | 蛮社の獄(渡辺崋山・高野長英らを処罰) |
1842〜42 | 英 | アヘン戦争 (清が英に敗れ、南京条約を締結) | 1842 | 天保の薪水給与令(異国船打払令を緩和) | ||
1846 | 米 | 米東インド艦隊司令長官ビッドル、浦賀に来航 | 弘化 ・ 嘉永 | 1844 | オランダ国王開国勧告(幕府は拒絶) | |
家定 | 1853 | 米東インド艦隊司令長官ペリー、浦賀に来航。 | 1846 | ビッドルの通商要求拒絶 | ||
1853 | 露 | 使節プチャーチン、長崎に来航 | 1853 | 大船建造の禁を解く | ||
1854 | 日米和親条約・日露和親条約・日英和親条約締結 | |||||
1855 | 日蘭和親条約締結 |