白村江の戦い A.D.663〜
白村江の戦いは、朝鮮半島の白村江で行われた、倭国・百済遺民連合軍と、唐・新羅連合軍との海戦。
高句麗と百済が連合して新羅に侵攻したため新羅は唐に救済を求め、高宗(唐)は660年百済を滅亡した。残った百済の遺臣らは百済復興をかかげ、倭国に滞在していた百済王子豊璋の送還と援軍の派遣を要請した。百済を復興して朝鮮半島における倭国の優位性を復活させようと考え、大軍を派遣させたが、唐軍の大勝に終わり、日本は半島から手を引くこととなった。
白村江の戦い
戦争データ
年月日:663年10月4日〜10月5日 | |
場所:朝鮮半島、白村江(現在の錦江近郊) | |
結果:唐・新羅連合軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
唐(王朝) 新羅 |
倭国 百済遺民勢力 |
指導者 | |
劉仁軌 文武王 |
上毛野君稚子 阿倍比羅夫 扶余豊璋 |
戦力 | |
不明 唐軍:130,000? 唐船舶:170余以上 新羅軍:50,000? |
倭国軍:42,000 倭国船舶:800余 百済軍:5,000 |
損害 | |
詳細不明 | 船舶:400 兵:10,000 馬:1,000 |
東アジア世界の形成と発展
東アジア文化圏の形成
唐文化の波及と東アジア諸国
新羅
朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の3国が鼎立し、これに日本が進出を企てるという状況であった。中国に統一国家ができると、隋・唐ともに高句麗に遠征軍を送り、攻撃を加えたが、高句麗はよく持ちこたえた。そこで唐(王朝)は新羅と結ぶこととし、百済(660)・高句麗(668)をつぎつぎと滅ぼした。
なお663年に日本は百済の再建を目指して唐・新羅と白村江に戦ったが(白村江の戦い)、唐軍の大勝に終わり、日本は半島から手を引くこととなった。この後、新羅は唐(王朝)勢力を半島から退けて、統一国家を樹立した(676)。
律令国家の形成
律令国家の成立
律令国家への道
朝鮮半島では、655年、高句麗と百済が連合して、新羅に侵攻した。新羅は唐に救済を求め、高宗(唐)は660(斉明天皇6)年、まず百済に出兵して、その都扶余を陥れ、百済の義慈王は降伏した。
ここに百済は滅亡したが、各地に残る百済の遺臣たちは、百済の復興に立ち上がり、倭国に滞在していた百済の王子豊璋(生没年不詳)の送還と援軍の派遣を要請してきた。
斉明天皇(在位655〜661, 皇極天皇が重祚した)と中大兄皇子は、百済を復興して朝鮮半島における倭国の優位性を復活させようと考え、百済救済の大軍を派遣することに決した。
661年中大兄皇子は斉明天皇とともに筑紫に出征し、斉明天皇の死後は、大王の位につかないまま、戦争指導を行った。
662年に大軍を渡海させたが、翌663(天智天皇2)年、白村江の戦いにおいて唐・新羅の連合軍に大敗した。
664(天智天皇3)年、中大兄皇子は、甲子の宣を出して国政改革を断行した。これは豪族を大氏・小氏・伴造に再編成するとともに、民部・家部の領有民を確認して諸豪族との融和につとめるものであった。また、国土の防衛にも専念し、対馬・壱岐や九州北部に防人や烽をおき、筑紫に水城を築いた。
665年からは、筑紫太宰の周辺や瀬戸内海沿岸から大和にかけて、大野城・基肄城・長門城・高安城などの朝鮮式山城を築造した。
667年には、都を飛鳥から近江大津宮に遷し、翌668年に中大兄皇子が正式に即位して(天智天皇)、国土防衛と国制の整備につとめることになった。
この間、唐・新羅連合軍は668年に高句麗を滅ぼしたものの、朝鮮半島支配をめぐって対立した。670年からは戦争状態に入ったのち、676年に結局、新羅は唐の勢力を駆逐して半島を統一する。