磐井の乱 527年
近江毛野が加耶を復興するための対新羅軍を渡海しようとしたところ、新羅と通じた筑紫国造磐井が北部九州の勢力をまとめておこした反乱。継体天皇は翌年、物部麁鹿火を大将軍として派遣し、鎮圧した。
磐井の乱
筑紫国造磐井が新羅と結び、527年に起こした反乱。近江毛野を将とする朝廷の「任那」救援、新羅征討軍6万人を阻止。1年後に物部麁鹿火に鎮圧された。この乱の平定により、ヤマト政権の西日本支配と外交の一元化が完成。福岡県八女市の岩戸山古墳は磐井の墓と考えられる。
飛鳥の朝廷
東アジアの動向とヤマト政権の発展
朝鮮半島では、5世紀に入ると、中国の北朝に朝貢を続けていた高句麗と、南朝に朝貢を続けていた百済との間に、激しい争いがおこった。
475年には、高句麗は百済の王城である漢城を攻め落し、百済王を殺すにいたった。百済は、王城を南の熊津に遷し、さらに538年には南方の扶余に遷都して半島南部の加耶の地へと勢力を広げていった。
この頃には、加耶諸国の自立の動きもめざましく、ヤマト政権の加耶地域における影響は失われていき、512年には加耶西部の地域が百済の支配下に入った。
一方、6世紀に入って急速に国家体制を固めていった新羅も、百済との抗争の中、562年には残った加耶諸国を併合するにいたり、ここにヤマト政権の半島南部への影響力は後退した。
この間、ヤマト政権は王統の断絶という大きな危機を迎えた。大伴金村は、507年、越前から応神天皇の5世孫と称する男大迹王を迎えて即位させ(継体天皇)、この危機を乗り切ろうとした。
しかし、継体天皇は容易には大和に入れず、527年には、ヤマト政権の対新羅出兵に反発した筑紫国造磐井が、北部九州の勢力をまとめて反乱をおこし、新羅遠征軍の渡海をさえぎるという乱が勃発するなど、ヤマト政権の支配は動揺を続けた。
この磐井の乱は、物部麁鹿火により、翌年にようやく鎮圧された。
磐井の乱
『日本書紀』によると、「継体天皇21(527)年、近江毛野が加耶を復興するための対新羅軍を渡海させようとしていたところ、新羅と通じた筑紫国造磐井が北部九州に勢力を張り、毛野軍の渡海をさえぎった。継体天皇は翌年、物部麁鹿火を大将軍として派遣し、麁鹿火は筑紫の御井郡で磐井と激戦の末、ようやくこれを斬った。磐井の子の葛子は、糟屋屯倉を献じて贖罪を乞うた」とある。
この戦乱の本質は、北国出身の大王のもと、ヤマト政権の支配が各地方に浸透していく段階で、弥生時代以来、独立性の高かった北部九州連合との間におこった軋轢ととらえるべきであろう。
磐井が新羅をはじめとする朝鮮諸国と結んでいたと伝えられるのも、その地域性を考えれば当然のことであり、王権が動揺していたこの時期に、北部九州連合による独自の外交権の主張が復活したと考えられる。この乱の鎮圧が、国造制と屯倉制成立の契機になったとみられている。