朝廷への統制図 禁中並公家諸法度
朝廷への統制図 ©世界の歴史まっぷ

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禁中並公家諸法度 きんちゅうならびにくげしょはっと
徳川家康は、1613(慶長18)年、公家衆法度5カ条を出して公家の統制をはかり、ついで1615(元和元)年、禁中並公家諸法度17条を制定して、朝廷統制の基準を明示し、天皇・朝廷が自ら権力をふるったり、他大名に利用されることのないよう、天皇や公家の生活・行動を規制し、京都に封じ込める体制をとり、幕末まで持続された。

禁中並公家諸法度

幕藩体制の確立

幕藩体制の成立

天皇と朝廷
禁中並公家諸法度(1615年7月公布)

起草は金地院崇伝らがあたった。

  • 1条で天子の行うべきこととして
    • ①統治・治道の学問
    • ②和歌
    • ③布職故実の習学を規定した。
  • 2.3条で朝廷内の座順を定め、摂家のなる三公(大臣)が親王(天皇の子)より上位とした。
  • 4·5条で三公、摂関に適材の人物を求めた。
  • 6条で養子は同姓から選ぶ、
  • 7条で武家の官位は公家の官位叙任とは別個に存在させることを規定した。
  • 8条で改元の方式を定め、
  • 9条は天皇・上皇・親王・公家の装束を定めた。
  • 10条で公家の官位昇進は家々の旧例にしたがうこと、
  • 11条で公家たちは関白・武家伝奏、奉行・職事にしたがうことを規定、
  • 12条では違反したときの処罰を規定した。
  • 13条で親王(宮)門跡一摂家門跡の座順を、
  • 14·15条で僧位・僧官の叙任を規定し、
  • 16条で紫衣の寺の住持職に関する規定、
  • 17条で上人号の勅許を規定した。

徳川家康は1611(慶長16)年、後水尾天皇ごみずのおてんのう(位1611〜29)を擁立した際、天皇の譲位·即位まで武家(幕府)の意向にしたがわせるほどの権力の強さを示した。さらに1613(慶長18)年には、公家衆法度5カ条を出して公家の統制をはかった。

公家衆法度

主な内容は、1条で公家衆の「家々之学問」に励むこと。2条で行儀法度に背く者は流罪に処すこと。3条で「昼夜之御番」(禁裏小番きんりこばん)を老若ともに怠りなく勤めるこで、これらに反する行為があれば五摂家ごせっけ武家伝奏ぶけでんそうからの届けに応じて武家が流罪などの沙汰をすると明記した。つまり、江戸時代の公家の役儀やくぎ(義務)は家々の学問(公家家業)と禁裏小番を勤仕きんじすることと規定された。公家家業とは、摂家は摂政・関白や三大臣になるなど朝廷の政務や俵式を担い、白川・吉田家は神祇道を、土御門家は陰陽道を、高辻・東坊城、舟橋家は学問を、飛烏井・難波家は蹴鞠をそれぞれ専門の家業として励んだ。禁裏小番とは、宮中に夜通し宿直したり、朝昼警衛する勤めであった。

ついで1615(元和元)年、禁中並公家諸法度きんちゅうならびにくげしょはっと17条を制定して、朝廷統制の基準を明示した。第1条で天皇に対する規定をしたうえで、全般にわたってこと細かな規制を加えたが、その特徴として、皇親政治にならぬよう親王をおさえ、摂家の役割を重視した。また、武家の官位を幕府の許可制にして、緒大名が直接に朝廷と結びつくことを防止した。

朝廷への統制図 禁中並公家諸法度
朝廷への統制図 ©世界の歴史まっぷ

幕府は京都所司代・禁裏付武家らに朝廷を監視させたほか、摂家(関白・三公)に朝廷統制の主導権を与え、武家伝奏を通じて操作しようとした。武家伝奏は、公家から2人選ばれ、幕府から役料やくりょう(年500俵)を受けた。彼らは朝廷と幕府とをつなぐ窓口になって、京都所司代と連絡をとりながら、幕府側の指示や触れなどを朝廷側に伝え、朝廷側の願書などを幕府側に提出した。例えば、公家たちの行動は規制されていたが、洛中から他出して醍醐や吉野に桜をみたいときには、武家伝奏を介して京都所司代に伺いを立て、許可を受けるといった具合である。また武家伝奏は、朝廷と都府との儀礼上の交渉を行う役割ももった。幕府における高家こうけと対応する役割で、勅使として江戸に下向した。

武家伝奏の職務は多忙となったため、1663(寛文3)年に議奏ぎそうを設置し、4〜5人の公家が武家伝奏を補佐して朝議に参画するようになった。1679(延宝7)年以降、幕府から年40石の役料が支給された。

幕府はこのような法度や摂家・武家伝奏(のちに議奏も)の統制機構を通して天皇・朝廷が自ら権力をふるったり、他大名に利用されることのないよう、天皇や公家の生活・行動を規制し、京都に封じ込める体制をとった。そのため、禁裏御料、公家領、門跡領は必要最小限度にとどめられたし、天皇の行幸は慶安期を最後に幕末期まで原則として認められなかった。また1620(元和6)年には、徳川秀忠の娘和子(東福門院、1607〜78)を後水尾天皇に入内にゅうだいさせたのを機に、幕府は統制を強め、官位制度や改元など伝統的な朝廷の機能を、全国支配に役立てた。

1629(究永6)年5月7日、後水尾天皇は譲位の意思を固め、武家伝奏を江戸に派遺して幕府に伝えた。譲位の趣旨は2カ条あった。ーつは、数年来病んでいた天皇の身体の腫物治療に灸を用いたいが、灸治は天皇在位中には行えない、だから譲位を望むという内容である。では譲位したあと誰が天皇になるのか、それが2カ条目の内容で、女ー宮興内親王(徳川秀忠の娘和子が生母)が即位することになる。女性天皇であることに天皇側は躊躇ちゅうちょしたが、それを超えて「女帝の儀くるしかるまじき」と記した。しかし、この5月の譲位要望は幕府に断られた。大御所秀忠の結論は、女性天皇誕生には同意するものの、6歳の孫娘ではいかにも時期尚早であるということであった。

この2年前の1627(究永4)年、幕府は大徳寺·妙心寺の入院·出世が勅許紫衣之法度(1613年公家衆法度と同時に公布)や禁中並公家諸法度に反して、みだりになっていると咎めた。大徳寺沢庵(1573〜1645)·玉室妙心寺単伝は、これに抗議し続けたので1629(寛永6)年7月、幕府は沢庵らを出羽国などに配流し、1615(元和元)年以来幕府の許可なく勅許された紫衣を剥奪した。以上の一連の事件を紫衣事件というが、この事件の背景には、禁中並公家諸法度などの幕府法度と天皇綸旨りんじとが抵触している状態を打開し、幕府法度の上位を明確に示す必要があったからである。

後水尾天皇は1629(寛永6)年11月8日、幕府の同意を求めずに突然に譲位した。

公家たちは知らされていなかったため、異例のことに驚いた。武家伝奏の一人中院通村(1588〜1653)だけがこの日の譲位の相談を受けていた。さらに驚いたのは京都所司代板倉重宗(1586〜1656)で、直ちに参内して「突然の譲位は言語道断の事である。大御所秀忠将軍家光に連絡して、その返事があるまで穏便にしているように」と命じた。

これに対して12月27日、やっと江戸城の徳川秀忠·家光からの返答が京都に届いた。「御譲位之由には驚いたことであった。こうなったうえは叡慮えいりょ次第」と天皇の意に沿うことが言明され、譲位が承認された。かくして奈良時代の称徳天皇以来、859年ぶりの女性天皇(明正天皇 位1629〜43)の誕生となった。

即位にあたって、幕府は役割を果たさなかった武家伝奏の中院通村を交代させ、さらに摂家に厳重な朝廷統制を命じた。家康以来推し進めてきた朝廷統制の基本的な枠組みは、ここに改めて確立し、幕末まで持続された。

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