科挙 (598年~1905年)
科挙は、門閥貴族の台頭という弊害を招いた九品中正法にかわって、文帝(隋)が、家柄や財産に関係なく、有能な人材を高級官僚に登用できるよう、試験による官吏登用制度としてはじめた。元代に40年ほど中断されるが、清末の1905年に廃止されるまで、約1300年間にわたって続けられた。
科挙
東アジア世界の形成と発展
東アジア文化圏の形成
隋の統一
581年に北周を倒して帝位につき、国号を隋(王朝)とした文帝(隋)は、統一国家の支配をより強固にするため、中央集権体制の確立に尽力した。北朝以来の 均田制、 府兵制を継承しつつ、税制として 租調庸制を確立して、民衆の支配の強化に努めたこと、地方行政制度を改革して、郡を州にあらため(州県制)、それまで地方長官が任命していた州県の属官をすべて中央からの派遣に改めたこと、これまで強大な勢力をふるってきた門閥貴族を抑制するため、九品中正を廃止して、あらたに学科試験による官吏登用法(選挙と呼ぶ)を開始したことなどは、そうした中央集権化への努力のあらわれである。
とりわけ、選挙はのちに科挙と称されて、清末まで継承され、皇帝の専制支配を支える重要な役割を果たすこととなった。
唐の混乱
中国史上唯一の女帝となった武后について、古来中国では、儒教的な女性観も手伝って、悪逆非道の君主のようにいわれてきた。たしかに武后は、酷吏と呼ばれる秘密警察官僚を駆使し、陰惨な恐怖政治をしいて反対勢力を弾圧したが、これによって勢力ある功臣や有力な貴族官僚(とくに関隴系門閥)が除去され、一方で科挙を重視して才能ある者を積極的に登用したので、中央集権が推進され、むしろ皇帝権力の基盤が強化されたという一面がある。
隋唐の社会
隋代に開始された科挙は、唐代に入って大きな発展をとげた。科挙には、詩文の創作を中心とする進士科や、儒教の教義を中心とする明経科などがあったが、唐代では進士科がもっとも重んじられ、高級官僚への登竜門として大変な難関となっていた。
しかし唐代には、科挙に合格しただけでは高官になることができず、実際に任官されるためには、吏部でおこなう試験(銓選)に合格しなければならなかったが、そこで審査されたのは、「身(容姿)・言(言語)・書(筆跡)・判(公文書の文体)」といった貴族的教養であった。また高官の子弟には、父祖の官位によって無試験で官位を与えられる制度(門蔭の制)や、国立大学である国子監への入学特権など、さまざまな優遇処置があった。科挙(進士科)にしても、合格者の多くは貴族層に属する人々であった。
東アジア諸地域の自立化
宋の統一
門閥貴族の台頭という弊害を招いた九品中正法にかわって、文帝(隋)が、試験による官吏登用制度としてはじめたのが科挙である。
科挙とは、種々の科目による選挙(中国では官吏登用を選挙という)を略したもので、家柄や財産に関係なく、有能な人材を高級官僚に登用しようとした。
元代に40年ほど中断されたものの、清末の1905年に廃止されるまで、約1300年間にわたって続けられた。
科挙の科目や機構は、時代とともに変遷したが、州試・省試・殿試という3段階の試験制度が設けられ、科挙の制度が完成したのは宋初のことであった。州試の合格者を挙人と呼び、省試に合格してさらに宮中での殿試に合格して進士となった。殿試は皇帝が試験官となって進士の成績序列を決め、この成績によって任官や将来の昇進が決定された。そのため、合格した進士たちは、皇帝への恩義を感じて忠誠を誓い、「天子(皇帝)の門下生」として君主独裁体制を忠実に補佐した。
宋初までは毎年おこなわれた科挙も、宋代後半には3年に1回に減り、また第一関門の州試だけでも100倍近い難関であった。ゆえに殿試までにたどりつくのは至難の業であり、宋代には70歳すぎの白髪の老人が進士合格を果たし、「五十年前二十三」の詩句を残して話題を呼んだこともあった。