隋唐演義 秦叔宝
秦瓊「隋唐演義」©浙江永楽影視制作有限公司

秦叔宝


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秦叔宝 (571〜638)

姓は秦で、名は瓊。字は叔宝しゅくほう(秦叔宝)。北斉の名将・秦彝の子で、幼いころに父が戦死。長じて隋(王朝)役人となる。羅成らせいの従兄弟で、程咬金ていこうきんとは幼馴染。親孝行で仁義にあつく、誠実な人柄により江湖の好漢からも尊敬を集めている。文武両道で、特に武術は左右一対の金鐗の達人。靠山王・楊林に見込まれ娘の玉児をめとるが、楊林が父の仇だったと知り衝撃を受ける。楊林と決別後は反朝廷に転じ、単雄信ぜんゆうしん、羅成ら志を同じくする英雄好漢たちと瓦崗寨に集結し、元帥をつとめる。
唐(王朝)凌煙閣二十四功臣りょうえんかくにじゅうよんこうしんのひとりに挙げられた。また後世には尉遅敬徳うっちけいとくとともに門神もんしんとして信仰された。(隋唐演義)

秦叔宝

秦 叔宝は、中国の唐(王朝)軍人。姓は秦で、名は瓊。叔宝とは字であり、字をもって通称される。本貫は斉州歴城(現山東省済南市)。唐(王朝)凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。また後世には尉遅敬徳とともに門神として信仰された。

経歴

はじめ隋(王朝)将軍の来護児らいごじの部将となった。のちに張須陀ちょうすだに従って李密(隋)を滎陽で討伐した。張須陀が李密に敗れて戦死すると、叔宝は残兵を率いて裴仁基の部下となり、裴仁基に従って李密に投降した。李密に重用されて、帳内驃騎に任ぜられた。李密が敗れた後、王世充おうせいじゅうに降り、龍驤大将軍に任ぜられた。619年、王世充の性格を嫌って、程知節ていしせつらとともに唐に帰順し、秦王李世民りせいみんの幕下に属した。馬軍総管となって尉遅敬徳と美良川で戦い功績を挙げた。秦王右三統軍となり、宋金剛を介休に敗走させ、上柱国に任ぜられた。王世充・竇建徳とうけんとく劉黒闥りゅうこくたつらに対する征討でしばしば先鋒に立って敵陣を突破した。功績により翼国公に封ぜられた。玄武門の変げんぶもんのへんの後、左武衛大将軍に任ぜられ、実封七百戸を受けた。638年に亡くなり徐州都督を追贈され、昭陵しょうりょう(唐)に陪葬された。太宗(李世民)はかれの人馬像を石に刻んで墓前に立てさせた。639年、胡国公に追封された。

人物・逸話

  • 叔宝の母が亡くなると、来護児は使いを立ててこれを弔問した。役人がいぶかしく思って「士卒が死んでも、将軍は弔問することがありませんでしたのに、今ひとり叔宝を弔問するのはなぜですか?」と尋ねた。来護児は「あいつには武才があり、志節もそなわっている。長く卑賎な身分ではおるまい」と答えた。
  • 張須陀が下邳かひ盧明月ろめいげつを討ったとき、敵は十万あまり、張須陀の兵はわずか十分の一にすぎなかった。堅く守って進まず、食糧が尽きたので、撤退しようとした。張須陀は「賊はわれらが退却するのを見れば、必ずこぞって追撃をかけてくるだろう。精鋭をもってその陣営を襲えば、勝利をえられよう。誰かわたしのために行く者はいないか?」と尋ねた。諸将に答える者のない中、叔宝と羅士信らししんだけが奮いたって行くことを望んだ。精兵千人を分かって草むらの間に伏せ、張須陀は退却に入った。盧明月は追撃をかけてきた。叔宝らは敵営を襲い、門が閉じて入れなかったので、楼を上って敵の旗を引っこ抜き、敵営内を混乱させ、門を守る兵を斬って外の友軍を導き、火を放って敵営を焼き尽くした。盧明月が引き返すと、張須陀も軍を返して攻撃し、これを大いに破った。また孫宣雅と海曲で戦い、先陣に立った。前後の功により建節尉に抜擢された。
  • 李密が黎陽童山で宇文化及うぶんかきゅうと戦ったとき、李密は流れ矢を受けて落馬した。叔宝はひとりで李密を守って奮戦したので、李密は捕縛を免れ、宇文化及も兵を撤退させた。
  • 叔宝には功が多く、高祖(唐)(李淵りえん)は黄金の瓶を賜り、「卿は妻子をかえりみずに自分に帰順してきた。さらにまた功を立てたからには、朕の肉を食わせたって惜しくはない。どうして子女の玉帛を惜しもうか」とねぎらって言った。
  • 晩年に病が重くなると、「わたしは若い頃から戦馬の間にあり、二百あまりの戦を経て、重傷を負ったことも数あり、出血は数斛におよんでいる。どうして病にかからないことがあろうか?」と言った。

Wikipediaより

秦叔宝が登場する作品

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