程咬金(程知節) (589年〜665年2月7日)
秦瓊の幼馴染。塩の密売で投獄されたのを恩赦により釈放され、尤俊達に誘われて今度は盗賊の仲間入り。靠山王・楊林から朝廷への貢物を強奪し、当時役人だった秦瓊がそれをかばって処刑されかかるという騒動に発展する。やりたいことをやり、言いたいことを言い、他人に迷惑をかけること数知れず。しかしその都度なぜか災いが福に転じていく天才的な強運の持ち主。瓦崗寨では同志46人の首領にまつりあげられ“混世魔王”と称す。(隋唐演義)
程知節
程知節は、中国の唐(王朝)軍人。姓は程で、名は咬金。本貫は済州東阿県。唐(王朝)凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。
経歴
- 瀛州刺史の程婁の子として生まれた。
- 隋(王朝)大業末年、人々を集めて郷里の防衛と治安維持にあたった。
- のちに李密(隋)に従った。
- ときに李密は軍中の勇士八千を四驃騎に属させ、左右に分けて自衛にあたらせ、「内軍」と号した。
- 李密は「この八千は百万の兵に匹敵する」と常々自負していた。知節は驃騎のひとつを領して、李密の恩遇も特に厚かった。
- 王世充と李密が戦ったとき、知節は北邙にあって内騎営を受け持ち、単雄信は偃師にあって外騎営を受け持った。
- 王世充が単雄信を襲撃すると、李密は知節と裴行儼を派遣して単雄信を救援した。
- 裴行儼が流れ矢に当たって落馬すると、知節はこれを救い、裴行儼を馬上に抱えて馳せもどった。
- のちに李密が敗れると、知節は王世充に捕らえられた。
- 王世充の性格を嫌って、秦叔宝とともに唐に帰順し、秦王府左三統軍に任ぜられた。
- 宋金剛・竇建徳・王世充との戦いに従軍して、左一馬軍総管を兼領し、先陣を切ったことも幾度かあった。
- 功績により宿国公に封ぜられた。
- 624年、李建成による讒言を受けて、康州刺史に左遷された。
- しかし知節は「大王の側近が去っては、身の安全をはかろうとしてもできましょうか?知節は死んでも、去りませんぞ」と李世民に言って赴任しなかった。
- 626年、玄武門の変ののち、太子右衛率に任ぜられた。まもなく右武衛大将軍に転じ、実封七百戸を受けた。貞観初年、瀘戎栄三州諸軍事・瀘州刺史となり、行軍総管となって鉄山獠の乱を平定した。左領軍大将軍・原州都督を歴任した。
- 637年、普州刺史となり、盧国公に改封された。幽州刺史・左屯衛大将軍などをつとめた。永徽年間、左衛大将軍・検校屯衛兵馬に転じた。
- 657年、葱山道行軍大総管に任ぜられ、西突厥の阿史那賀魯(沙鉢羅可汗)を討った。
- 唐軍が怛篤城にいたると、胡人数千が降ってきたが、知節はその城ごと虐殺して去ったという。
- 阿史那賀魯は遠く逃げ去った。軍が帰還すると、罪に連座して免職された。
- 岐州刺史として再起用されたが、まもなく致仕した。
- 665年に懐徳里の邸で病死した。享年は77。
- 驃騎大将軍・益州大都督の位を追贈され、昭陵に陪葬された。
- 夫人は清河の崔氏で、658年に亡くなり、知節とともに合葬された。
- 子に程処黙・程処亮・程処弼があった。程処黙が盧国公を継いだ。程処亮は清河公主の降嫁を受けて、駙馬都尉・左衛中郎将となった。程処弼は右金吾将軍となった。
程知節が登場する作品
「隋唐演義」
程咬金ていこうきんは、秦瓊の幼馴染。塩の密売で投獄されたのを恩赦により釈放され、尤俊達に誘われて今度は盗賊の仲間入り。靠山王・楊林から朝廷への貢物を強奪し、当時役人だった秦瓊がそれをかばって処刑されかかるという騒動に発展する。やりたいことをやり、言いたいことを言い、他人に迷惑をかけること数知れず。しかしその都度なぜか災いが福に転じていく天才的な強運の持ち主。瓦崗寨では同志46人の首領にまつりあげられ“混世魔王”と称す。
隋唐演義 集いし46人の英雄と滅びゆく帝国 登場人物とあらすじ – 世界の歴史まっぷ