第1次大隈内閣( A.D.1898〜A.D.1898)
憲政党を基礎に大隈(外相兼任)・板垣(内相)が中心となって成立したので、隈板内閣ともいわれる。陸・海軍大臣を除く閣僚を、すべて憲政党員が占めた最初の政党内閣。共和演説事件による与党憲政党の内紛・分裂で、退陣した。
第1次大隈内閣
憲政党を基礎に大隈(外相兼任)・板垣(内相)が中心となって成立したので、隈板内閣ともいわれる。陸・海軍大臣を除く閣僚を、すべて憲政党員が占めた最初の政党内閣。共和演説事件による与党憲政党の内紛・分裂で、退陣した。
近代国家の成立
日露戦争と国際関係
日清戦争後の政府と政党
伊藤はじめ元老たちの推薦を受けた大隈重信と板垣退助が組閣を命ぜられ、大隈を首相とし憲政党を与党とする日本で最初の政党内閣を組織するにいたった。このいわゆる隈板内閣(第1次大隈内閣)は、首相大隈·内相板垣以下、陸相・海相以外はすべて憲政党員からなっていた。しかし、憲政党は同年8月の総選挙で衆議院の絶対多数を占めたにもかかわらず、自由党系と進歩党系の対立が激しく、文相尾崎行雄がいわゆる共和演説 ❶ を非難されて辞職に追い込まれたりした。結局、旧自由党系の星亨が暗躍して憲政党を解党させたために ❷ 同内閣はわずか4カ月余りの短命に終わった。