紫式部
紫式部像(土佐光起筆/石山寺蔵)画像出典:富山県水墨美術館 紫式部は一条天皇の没後も彰子に仕えたという。

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紫式部 (生没年不詳 10世紀)
越前守藤原為時の娘。一条天皇の中宮彰子(藤原道長の娘)に仕え、『源氏物語』を著す。

紫式部

越前守藤原為時の娘。一条天皇の中宮彰子(藤原道長の娘)に仕え、『源氏物語』を著す。

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後宮をとりこにした『源氏物語』の作者

父の為時を嘆息させた紫式部の豊かな才能

日本文学の最高峰として君臨する『源氏物語』は、世界最古といわれる長編小説(400字詰め原稿用紙に換算すると約2000枚)としても著名だ。

現代でも根強い人気を得ている、この小説の作者が紫式部である。全54帖の完成には、じつに10年余りの歳月が費やされた。光源氏を中心とした人々の愛の遍歴を通じ、人間が純粋に生きることの哀しみと美しさを、雅やかな文体と豊かな想像力で、描き上げたのである。

『源氏物語』が誕生したといわれる寺

石山寺
石山寺東大門(重要文化財)Wikipedia

石山寺:紫式部は石山寺を参詣した折、『源氏物語』の着想を得たと伝えられている。『枕草子』にも登場し、清水寺や長谷寺とともに霊験あらたかな寺として、身分を問わず参詣者を集めた(滋賀県大津市)

紫式部の父は藤原為時ふじわらのためとき。庶流とはいえ藤原氏系であり、名門であった。式部の本名は不明で、父の官職(式部大丞)から当初は『源氏物語』の藤式部とうのしきぶという女房名で呼ばれた。「紫の上」の名を取って、没後、「紫式部」といわれるようになったという説もある。

父の為時は、漢詩や文章の道に優れた人であった。式部はその血を受け継いだのか、幼い頃から才能の片鱗を見せる。あるとき、為時が、式部の兄の藤原惟規ふじわらののぶのりに『史記』を教えていた。それを傍らで聞いていた式部は、兄よりも先に覚えてしまったので、為時は「本当に残念なことだ。この子が男であったなら、きっと将来は立派な学者になるだろうに」と嘆いたというエピソードが『紫式部日記』に書かれている。

998年(長徳4)、紫式部は、20歳ほど年上だった藤原宣孝ふじわらののぶたかと結婚した。年の差こそあったが、2人の仲はむつまじく、翌年には賢子かたいこが生まれた。だが、賢子が産まれた頃を境に、夫・宣孝の気持ちはしだいに式部から離れていった。悲しみに暮れる式部に、さら不幸が続いた。結婚してわずか2年半ほどで、宣孝が病死したのである。宣孝の生前には、冷たい関係となってしまったが、亡くなってみると、寂しさがつのってくるものである。『源氏物語』は、日々の寂しさをまぎらわすため、筆をとっているうちに生まれたものだとも伝えられている。

藤原道長と紫式部の出会い

紫式部日記絵巻
紫式部日記絵巻 ©Public Domain

『紫式部日記絵巻』五島美術館本第一段 帝の土御門邸行幸翌日の10月17日、中宮権亮実成と中宮大夫斉信が、紫式部のいる「宮の大夫の局」を訪れる。呼び掛ける実成(右)と斉信(左)、蔀戸しとみど越しに顔をのぞかせる紫式部。

紫式部が物語を書き進めていくうちに、しだいに人々の間で評判になり、噂は時の左大臣・藤原道長ふじわらみちながの耳にも達した。紫式部のオ能を高く評価した道長は、紫式部を一条天皇の中宮である娘の彰子しょうしの女房として取り立てた。1005年(寛弘2)のことである。

当時は、道長の栄華が頂点に達しようという時代。道長は自分の娘を天皇の後宮に入れることで、天皇家と外戚関係をつくろうとしていた。それは道長に限ったことではなく、ほかの貴族も行っていた。そのために貴族たちは、わが娘が天皇の歓心を得られるよう、才色に優れた女性を選び、仕えさせたのである。彰子の女房のひとりとして選ばれたのが、紫式部であった。『栄華物語えいがものがたり』によれば、彰子に仕えた女房は40人もいたといい、その誰もが容貌・教養ともに優れ、立ち居振る舞いは優雅だったという。

式部と同じように、中宮となった藤原定子ふじわらのていし藤原道隆ふじわらのみちたかの娘)に仕えたのが、清少納言である。2人はライバルの立場であったが、直接の交流はなかった。式部が出仕したのは清少納言が官仕えを退いたあとだったからである。しかし、お互いの噂は折々耳に入っていたのだろう。式部は「清少納言ほど、したり顔をして高慢な態度の人はいない」と日記に記している。

摂関政治(摂関家) 藤原氏北家の発展
藤原氏系図 ©世界の歴史まっぷ

宮中での日々と謎に包まれたその晩年

宮廷に入った式部は、彰子に仕えるかたわら、宮廷生活のさまざまな体験をもとに、『源氏物語』を書き続けた。評判はさらに高まり、一巻が終わるごとに、人々から続きを催促されるほどで、その評判は一条天皇の耳にも達したという。

1013年(長和2)頃に、式部は宮廷を去ったと考えられている。式部が女房として仕えている間に、彰子は一条天皇の皇子を産み、皇太后になってい
た。式部は、立派に役目を果たしたといえるだろう。また、『源氏物語』も宮廷にいる間に完成させたとされている。ほかの多くの女房たちと同じように、式部の晩年を伝える記録はない。だが、父である為時が、越後守えちごのかみとして任地におもむき健在であったので、娘の賢子とともに父親のもとで晩年を過ごしたのかもしれない。

娘の賢子はその後、歌人として名を成し、後冷泉天皇ごれいぜいてんのうの乳母となった。関白藤原道兼ふじわらのみちかねの子である藤原兼隆ふじわらのかねたかと結婚し、中流貴族の女性としては恵まれた人生を送ったという。

紫式部と藤原彰子

藤原彰子は12歳のときに、一条天皇のもとに入内。一条天皇には、皇后定子と中宮彰子の2人が立ち、それぞれがサロンともいうべき後宮をつくった。
彰子が入内して6年ほどして、紫式部が彰子のサロンに加わる。彰子のサロンには、和泉式部いずみしきぶ赤染衛門あかぞええもんなども仕えていた。

サロンの女房には、知識、教養、機知が求められる。紫式部にはその著書の中で、定子サロンの清少納言への対抗意識を書いたり、同僚の女房を批判したりしている。女房同士、高いプライドをもって宮仕えしていたことがうかがえる。

式部と道長:『紫式部日記』には、藤原道長は自分の娘の彰子中宮に仕える紫式部のことを憎からず思っていたという記述が見られる。

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貴族政治と国風文化

国風文化

国文学の発達

摂関政治が全盛期を迎えた10世紀末以降になると、仮名文学は宮廷女性によっていっそう洗練されることとなった。これは中央での相対的に安定した政治状況の中で、皇后など地位の高い女性の元に才能豊かな女房(侍女)が集まり、一種の文芸サロンを形成したためである。なかでも一条天皇の皇后藤原定子ふじわらのていしに仕えた清少納言せいしょうなごんの随筆『枕草子』と、藤原道長の娘で同じく一条天皇の中宮藤原彰子ふじわらのしょうしに仕えた紫式部むらさきしきぶの長編小説『源氏物語』は、その最高峰ともいえる作品である。このほか、藤原道綱母の『蜻蛉日記かげろうにっき』『紫式部日記』『和泉式部日記いずみしきぶにっき』、菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめの『更級日記さらしなにっき』などの日記文学には、女性特有の細やかな感情が表されている。

紫式部日記の女房観

『紫式部日記』には、中宮彰子・皇后定子・斎院選子内親王(村上天皇の娘)らに仕えた女房の容姿や性格、才能などを具体的にあげて批評した箇所がある。
和泉式部については、手紙のやりとりは巧みだが、歌というものが十分にはわかっていないとし、『栄花物語』の作者赤染衛門あかぞめえもんについては、風格のある歌を詠むが、格別優れた歌人とはいえない、となかなか手厳しい。とりわけ清少納言については、漢文学の知識をひけらかして得意になっているのは鼻もちならず、このような軽薄な人の将来はろくなことがないと痛烈であるが、これは紫式部と清少納言が、彰子と定子という対抗関係にあった后に仕えた女房だったことも影響していると考えられる。
これに対して紫式部本人は、幼い頃から父の教えで学問を身につけてきたが、その知識をひけらかすことなく、目立たないように心がけているとしており、当時の貴族女性と漢文学との複雑・微妙な関係が示されていて興味深い。

参考 詳説日本史研究

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