織田信長 おだのぶなが( A.D.1534〜A.D.1582)
室町後期の戦国大名。今川義元、ついで美濃の斎藤氏を滅ぼしたのち、足利義昭を擁して上洛、浅井・朝倉氏およびこれと結ぶ比叡山を撃破、のち義昭を追放して室町幕府を滅ぼした。さらに武田勝頼を破り、石山本願寺と和議を結び、毛利氏征討を進めたが、明智光秀に本能寺の変で攻められ、全国統一の業半ばで倒れた。安土城を築き、また関所の撤廃・楽市楽座・検地等の革新政策を行なった。
織田信長
尾張・織田氏の当主となり、常備軍を整備し天下統一を目指す。楽市・楽座や検地、関所の撤廃などを行い、その支配地域は東海・畿内・北陸・中国など広範囲に及んだ。
天下布武を掲げ、近世への道を切り開く
本能寺に散った天下統一の夢
「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり・・」
織田信長が好んで舞ったという幸若舞『敦盛』の一節である。紅蓮の炎に包まれた本能寺で、奇しくも信長は、50歳を目前にしていた。1582年(天正10)6月2日、信長は京の本能寺にいた。中国の毛利氏を攻略している羽柴(豊臣秀吉)を支援するため、わずかな近侍を連れて安土城を発ち、京に入った。この年、武田氏を滅亡させた信長の目の前に立ちはだかる敵は、わずか中国の毛利氏、四国の長宗我部氏、北陸の上杉氏、九州の島津氏のみ。京を中心とした畿内とその周辺30か国を領国に収めた信長は、まさに天下布武を実現させようとしていた――。黎明の薄い光があたりをさし始める時刻。物音に目覚めた信長は、近侍に様子を探らせる。「本能寺は軍勢に囲まれ、敵は桔梗の紋」。信長にとって最も信任篤かった明智光秀の紋である。秀吉の毛利攻めの援軍に向かっているはずの光秀率いる1万3000の軍勢が本能寺を包囲、乱入した。燃えさかる堂内で、薙刀を振るって奮戦する信長の胸に去来したものとは・・。光秀への恨み言か、あるいは天下統一への執着か。しかし、信長とて戦乱の世を生き抜き、天下統一のためにライバルを討ち取ってきた戦国大名である。「光秀め、やりおったな」と、意外にあきらめが早かったかもしれない。日本の「中世的権威」をことごとく破壊し、近世への道を切り開いたともいわれる信長だったが、天下統一への夢を成就させることはなかった。
桶狭間の戦いで一躍、武名を上げる
織田信長が生まれたのは、1534年(天文3)、各地で戦国大名が戦いに明け暮れる時代であった。父の信秀は尾張守護代の織田家の末流ではあったが、戦上手で尾張半国20万石の戦国大名にのし上がっていた。その嫡男である信長だが、「うつけ」ぶりは広く知られるところとなる。急死した信秀の葬儀に茶先髭の頭、袖なしの着物に獣皮の半袴、腰に荒縄……という突飛な格好で現れた信長は、位牌に抹香を投げつけた。「信秀様が築いた勢威もこれまでか」。家督を継いだ18歳の信長のもとからは地侍が次々と離れ、8万石にまで自領を減らすこととなる。その後8年にわたり、織田一族の骨肉の争いに明け暮れ、ようやく尾張国を制した。そのころ、東海の大守今川義元が上洛の大望を抱いて、駿府城を大軍を率いて出発したのは1560年(永禄3)5月12日である。義元の上洛計画の噂は、だいぶ前から尾張に伝わっていた。ところが信長は本格的な臨戦態勢をとらず、祭りがあれば城を脱け出して踊りに加わったり、子供のように魚取りに熱中していたという。「やはり、殿はうつけよ」。今川勢進撃の報告は、逐一清洲城に伝えられたが、信長は動かない。国境付近で野戦か、清洲城に籠城か。家臣たちは軍議を繰り返すが結論は出ず、信長は沈黙するのみ。今川勢の尾張侵入の報告を受けたものの軍議を開くこともなく、深夜になって諸将を屋敷に帰した。重臣たちは「智恵の鏡も曇るとはこのことか」と、織田家の行く末を憂えたという。しかし、信長は夜明けが近づくとにわかに立ち上がり、7〜8騎の小姓のみを従えて出馬、一気に熱田まで駆け抜け、善照寺砦と中島砦に布陣した。この頃には続々と兵たちが駆けつけたが、それでもその数はわずか2000〜3000であったという。そこに、忍から義元本隊は桶狭間の北、田楽狭間で休息中との知らせが入る。突然の雷雨。今川軍は雨宿りに走り、濡れた鎧や具足を脱ぐ者もいたという。「者ども。天佑だぞ、目指すは義元の首のみ―」。信長の下知で信長軍は潜んでいた山中から義元の本陣目指して雨の中を突進した――。海道一の弓取りと称された義元を破ったことにより、信長の武名は広く知れ渡った。時に信長、27歳。天下統一ヘの糸口をつかんだ信長は、その後、優秀な家臣にも恵まれ、各地を制圧していくことになる。
既存の権威を次々と破壊 天下布武の道を突き進む
今川義元の死で人質から解放された三河岡崎城主・家康をはじめ、近江の浅井、越後の上杉、甲斐の武田と同盟を結ぶと、美濃攻略を始める。苦戦した美濃攻めを、秀吉の墨俣築城を機に一気に成し遂げると、斎藤龍興の居城であった井ノロ城を岐阜城と改めて、本拠を移した。「天下布武」の印を使い始めるのもこの頃からである。1568年(永禄11) には、亡き室町幕府十三代将軍足利義輝の弟足利義昭を奉じて上洛。翌年、義昭を室町幕府十五代将軍に仕
立て上げて実権を握る。義昭は不満を募らせるが、信長の武力を背景に将軍の地位を得ただけに、表立って反抗するわけにもいかず、ひそかに越前の朝倉氏らと連絡を取り合い、信長包囲網を画策する。朝倉義景、浅井長政、武田信玄、毛利輝元、三好三人衆、さらに比叡山延暦寺、石山本願寺などの寺社勢力に呼びかけて「信長包囲網」を結成した。四面楚歌に陥り何度となく窮地に追い込まれた信長だったが、最大の強敵であった武田信玄の病死によつて「信長包囲網」は崩壊。勢いを取り戻した信長は1573年(天正1)7月、「信長包囲網」の黒幕であった足利義昭を京から追放し、室町幕府を滅亡させる。また、信長は仏教を弾圧する。比叡山焼き討ちである。比叡山は終始、信長には反抗的であった。信長は比叡山に対して、「信長に協力するか。さもなければ、せめて中立を守るか」と申し入れたが、叡山側は信長への反抗をやめなかった。信長は、ついに比叡山焼き討ちを決意した。1571年(元亀2)8月、比叡山を攻囲。翌月、根本中堂をはじめ堂塔伽藍を焼き尽くし、僧俗男女合わせて1600余人が殺害されたという。信長は宗教を全否定していたわけではない。だが、教義をはずれ、武器を片手にした仏教勢力に我慢ならなかった。天下布武を掲げた信長は、幕府だけでなく宗教という中世的権威をも破壊した。信長の中世破壊は、武力にとどまらない。城下での楽市・楽座の施行、撰銭による貨幣統一などを断行し、経済改革も成し遂げている。さらに兵農分離の進展により大規模な常備軍を創出した。これによって武士は、所領である村落の支配・管理から解放され、信長の命令一下、戦争に専念することができたの
である。また、鉄砲の大量導入に信長ほど積極的だった大名はいなかった。当時の鉄砲生産地ある和泉の堺、近江の国友や日野を支配下に置いたことで、信長は圧倒的な火力を戦場に動員できるようになったのである。
さらに、安土城に代表される築城術でも信長は新境地を切り開いた。畿内周辺で完成しつつあった築城技術の粋を築城プランに取り入れ、巨大な天守という近世城郭のスタイルを生み出したのは信長の独創だった。これらのことを軍師や執事を置かず、すべて独自の判断で遂行したという点こそ信長が「天才」と評される所以である。
機内を平定し天下統一は目前に
「信長包囲網」に加わっていた大名の大半を戦滅させた信長は、支配領域の拡大と近江の軍事的安定にともない、1576年(天正4)、本拠地を岐阜から琵琶湖東岸の安土に移し、そこに安土城を築く。しかし信長の北と西に向けての戦線拡大は、新たな敵を出現させた。北陸には越後の猛将上杉謙信、中国地方には石山本願寺を支援する毛利輝元がいた。しかし謙信が1578年に没すると、その後継争いに乗じて柴田勝家らが越中へ侵攻。丹波攻略担当の明智光秀も、細川藤孝と協力して丹波を平定した。1582年には長篠の戦い以後衰えた武田家を滅ぼし、信濃・甲斐・駿河・上野を勢力範囲に収めた。列島の中央部を支配した信長は、いよいよ中国地方の毛利平定を本格化する。
天下統一が見えた矢先、夢半ばに果てる
対毛利戦線を担当していた豊臣秀吉は、1581年(天正9)に鳥取城を落とし山陰の一角を奪うと、毛利方の清水宗治が籠る高松城を攻囲。毛利との対決がいよいよ迫りつつあった。1582年6月1日、明智光秀は、秀吉支援のため1万3000の兵を率いて居城である丹波亀山城を進発。しかし、翌2日未明、光秀の軍勢は両国ではなく、東に向けて進軍を開始した。目指すは京の本能寺である。そこには、自ら毛利攻め支援に向かう途中の信長が、わずかな手勢とともに宿泊していた。寝込みを襲われた信長は、光秀謀反と知るや、「是非もなし」とつぶやいて炎の中で自害した。
幕藩体制の確立
織豊政権
織田信長の統一事業
戦国大名のなかで全国統ーの願望を最初にいだき、実行に移したのは尾張の織田信長(1534〜82)であった。信長は尾張守護代の家臣であった織田信秀(1511〜52?)の子で、1555(弘治元)年に守護代を滅ぼしてその居城清洲(須)城を奪い、まもなく尾張を統ーした。ついで1560(永禄3)年尾張に侵入してきた今川義元(1519〜60)を桶狭間の戦いで破り、1567(永禄10)年には、美濃の斎藤氏を滅ぼして肥沃な濃尾平野を支配下においた。信長は、斎藤氏の居城であった美濃の稲葉山城を岐阜城と改名してここに移り、「天下布武」(天下に武を布くす)の印判を使用して、天下を自分の武力によって統ーする意志を明らかにした。翌年信長は、暗殺された前将軍足利義輝の弟で信長の力を頼ってきた足利義昭(1537〜97)を立てて入京し、義昭を将軍職につけて、全国統ーの第一歩を踏み出した。しかし、信長は足利義昭の勧める管領・副将軍への任官を辞退して幕府体制から一定の距離をおき、また朝廷に対しては、荒廃した内裏の修理を進めて尊王ぶりをアピールする一方、正親町天皇(在位1557〜86)の皇子誠仁親王(1552〜86)を形式上の養子とするなどして、伝統的な権威を自らの手中におこうとした。
信長の素顔
信長と対面したイエズス会宜教師たちによれば、信長は中背で華奢な体つきをしており、ひげが薄く、かん高い声のもち主であったという。睡眠時間は短く、酒を飲まず不潔や不整頓を極度に嫌い、果物の皮一枚を掃き忘れたがために信長に切られた下女もいたほどであった。自尊心が強く、大名諸侯をすべて見下し、家臣の進言にもほとんど耳を貸さなかったが、反面、身分の低い者とも気さくに話をするような一面ももっていた。信長は、霊魂や来世を信じない徹底した無神論者であったがこれについて宣教師の一人はつぎのような話を伝えている。かつて父織田信秀が危篤におちいったとき、信長は僧侶たちを呼んで病気回復の祈認を行わせた僧侶たちは口々に信秀の回復を保証したが、数日後、信秀は世を去ってしまった。そこで信長は僧侶たちを寺院に監禁し、「今度は自分たちの命について偶像に祈るがよい」といって、彼らを射殺してしまったというのである。のちに信長をあの激しい仏教弾圧に駆り立てたものはあるいは若き日のこの苦い思い出だったのかもしれない。
1570(元亀元)年、信長は姉川の戦いで近江の浅井長政(1545〜73)と越前の朝倉義景(1533〜73)の連合軍を破り、翌年には浅井・朝倉方に加担した比叡山延暦寺を焼打ちにし、強大な宗教的権威と経済力を誇った寺院勢力を屈伏させた(延暦寺焼打ち)。1573(天正元)年、信長によってしだいに権限を奪われつつあった足利義昭は、将軍権力の回復をめざして浅井・朝倉・武田の諸氏と結んで信長に反抗したが、武田軍が信玄の急死により進軍を中止したために利を失い、信長は浅井長政・朝倉義景を討つとともに、義昭を京都から追放し、室町幕府を滅ぼした(室町幕府の滅亡)。1575(天正3)年、信長は三河の長篠合戦で大量の鉄砲と馬防柵を用いた画期的な戦法で、宿敵武田信玄の子武田勝頼(1546〜82)が率いる騎馬軍団に大勝し、翌年、近江に壮大な安土城を築き始めた。
安土城
安土城は琵琶湖岸の小山の上に築かれた平山城で、中央には7階建ての壮大な天守(天守閣)がつくられ、織田信長の居所とされた。天守の外壁や軒瓦には金箔が押され、内部には狩野永徳らに描かせた障壁画など数々の豪華な装飾がほどこされた。信長は築城と同時に城外に摠見寺という寺も建立したが、信長は自らをその本尊と位置づけ、城下の人々に参拝させたという。信長は1579(天正7)年に岐阜城を子の信忠(1557〜82)にゆずって安土城に移ったが京都ににらみをきかせながら、しかも一定の距離をおいた安土の地は、信長の伝統的な権威に対する姿勢をよく示している。安土城は本能寺の変の際の混乱で焼失したが、その建築は近世城郭建築に大きな影響を与えた。
しかし、信長の最大の敵は石山本願寺を頂点にし、全国各地の真宗寺院や寺内町を拠点にして信長の支配に反抗した一向一揆であった。本願寺では第11代門主の顕如(光佐、1543〜92)が1570(元亀元)年、諸国の門徒に信長と戦うことを呼びかけて挙兵し、前後11年に及ぶ石山戦争が展開された。しかし信長は、1574(天正2)年、伊勢長島の一向一揆を滅ぼし、翌年には越前の一向一揆を平定して、ついに1580(天正8)年、石山本願寺を屈伏させ、顕如を石山(大坂)から退去させることに成功した(石山本願寺攻め)。約1世紀にわたり存続した加賀の一向一揆が解体したのもこのときである。
東本願寺と西本願寺
織田信長の石山本願寺攻めに際し、石山からの退去を決定した顕如に対し、長男の教如(1558〜1614)は徹底抗戦を主張して父顕如と対立した。その後、両者は和解したもののこの事件は教団内における教如の立場を微妙なものにした。本願寺は豊臣秀吉のときに京都堀川に移されたが(西本願寺)、顕如が死去すると教如は本願寺門主の座を弟の准如(1577〜1630)にゆずり、隠退した。その後、教如には徳川家康から京都七条烏丸に別の寺が与えられ(東本願寺)、ここに本願寺は東西両派にわかれることになった。現在、西本願寺は真宗本願寺派本山として俗に「お西」と呼ばれ、東本願寺は真宗大谷派本山として俗に「お東」と呼ばれている。
このようにして、信長は京都をおさえ、近畿・東海・北陸地方を支配下に入れて、統一事業を完成しつつあったが、1582(天正10)年、甲斐の武田勝頼を天目山の戦いで滅ぼしてからわずか3カ月後、毛利氏征討に向かう途中、滞在した京都の本能寺で、家臣の明智光秀(1528?〜82)にそむかれて敗死した(本能寺の変)。
織田信長は組織性と機動力とに富む強力な軍事力をつくりあげ、優れた軍事指揮者として、つぎつぎと戦国大名を倒しただけでなく、伝統的な政治や経済の秩序、権威に挑戦してこれを破壊し、新しい支配体制をつくることをめざした。信長は、入京直後、全国一の経済力をもつ自治的都市として繁栄を誇った堺に高額の矢銭(軍用金)を要求し、堺がこれを拒否して反抗すると、翌年、堺を直轄領とするなどして、畿内の高い経済力を自分のもとに集中させた。
また、これまで交通の障害となっていた関所の撤廃を積極的に進め、安土の城下町には楽市令(楽市・楽座令)を出して来住した商工業者に自由な常業活動を認めるなど、新しい流通・都市政策をつぎつぎと打ち出していった。宗教政策では、延暦寺や一向一揆を制圧したほか、当時京都の町衆らの間に根強い勢力を保っていた日蓮宗に対しても、安土城下で浄土宗と論戦を行わせ(安土宗論)、そこでの敗訴を理由に激しい弾圧を加えるなど、仏教勢力には終始徹底した態度でのぞんだ。その反面、彼らから弾圧を受けていたイエズス会宣教師に対しては好意的な態度をとり、その布教活動を支援するとともに、南蛮貿易にも大きな関心を示した。
楽市令
つぎに示したのは1577(天正5)年6月織田信長が安土城下町に出したものである。
- 当所中楽市として仰せ付けらるるの上は、諸座・諸役・諸公事等、ことごとく免許の事。
- 往還の商人、上海道(中山道)相留め、上下とも当町に至り寄宿すべし。(後略)
- 普請免除の事。(後略)
- 分国中徳政これを行うといえども、当所中免除の事。
- 喧嘩口論并にに国質、所質·押売、宿の押借以下、ー切停止の事。
これは全13条のうち、1·2·3·8·10条を示したものであるが、座の特権否定、商人来住の奨励、土木工事への徴発免除、徳政への不安除去、治安維持の保障をそれぞれ示しており、このほか伝馬役、家屋税の免除、よそ者の差別待遇否定などの条項もあって、城下繁栄がそのねらいであったことが読みとれる。
城下町を振興させて天下統一へ
清須城下の整備
織田信長は、1534年(天文3)年、尾張勝幡城主織田信秀の三男として生まれた。1538年(天文7)年ころ、父信秀が奪取した那古野城に入り、1552(天文21)年、信秀が病死したため、18歳で家督を継いでいる。信長が、尾張の中心であった清須城を奪取し、那古野城から居城を移したのは、1555(弘治1)年のことである。信長が在城していたころの清須城下がどのようになっていたのかはわからない。ただ、家臣700〜700人が集住していたという記録があり、発掘調査によっても、城下町が武家地・町人地・寺社地に区分されていたことが明らかにされている。もっとも、信長が入ったときには、清須城は築城されてからおよそ150年を経ており、城下町の新たな町割は難しかったらしい。町人地は城下に散在しており、計画的に都市計画がなされていたわけではなかった。
家臣の不満をそらす計略
1588(永禄1)年に尾張を平定した信長は、1560(永禄3)年、宿敵であった駿河の今川義元を桶狭間の戦いで破ると、美濃へと侵攻していく。そして、1563年(永禄6)、信長は美濃との国境に近い小牧山に新たな城を築き、清須城から居城を移した。信長が清須から居城を移転するという噂が家中でささやかれたとき、自らの本拠地から動きたくない家臣はみな不満に思っていたらしい。そこで信長は一計を案じ、小牧山よりさらに北のニノ宮山に城を築き移転すると宜言する。当然、家臣は反対するが、反対意見が十分に出たころを見計らい、信長は家中の意見を吟味した結果として、移転先を小牧山に変更することを申し渡した。すると、今度はほとんど反対意見もなく、小牧山への移転に同意したという。信長は、あえてこのような方法をとって家臣を納得させたのだった。
商業を発展させる制度の導入
1567年(永禄10)、美濃の斎藤龍興を滅ほした信長は、小牧山城から岐阜城に居城を移すと、早くも城下町の整備に乗り出した。翌年、信長が城下町の加納を改めて楽市・楽座としたのも、その一環である。楽市とは、課税されずに市で商売ができること、楽座とは、座という同業組合に属していなくても市で自由に商売ができることをいう。信長は、岐阜城下町を楽市楽座とすることで、各地の商人を城下に集め、商業による振興を図ろうとしたのだった。さらに信長は、1576年(天正4)、岐阜から安土に居城を移すが、翌年、安土の城下町に掟書を公布している。この掟書の第1条に、安土城下町も楽市・楽座とすることが定められていた。こうした信長の商業振興により、多くの商人が安土城下に集まってきたという。
武士の城下町移住を決行
ただ、商人が安土城下に集まってきたのとは対照的に、武士の城下町移住は進まなかった。武士の場合はとくに、「一所懸命」に守ってきた先祖伝来の地を離れなければならないのだから、当然といえば当然である。1578年(天正6)、安土城下で、福田与ーという家臣の屋敷が火事になったとき、単身赴任の福田与ーが慣れない炊事をしていたことが原因だと聞いた信長は、激怒する。こうした家臣は、最初から安土城下に定住するつもりがなく、いつ本拠地に戻ってもいいように、妻子を残してきていたからである。しかも、調査の結果、ほかにも120人の家臣が、妻子を本拠地に残していることが判明した。驚いた信長は、妻子を残してきた家臣の本拠地の屋敷をすベて焼き払わせている。こうして、信長の家臣は、家族とともに安土城に集住することを余儀なくされた。これにより、農業にも従事していた下級の家臣に至るまで、専業の武士として信長を支えていくことになったのである。