脱亜論
福沢諭吉が1885年3月の『時事新報』に発表した論説。清・朝鮮の開明を待って連帯を強める時間的余裕はなく、むしろアジアを脱して欧米列強側に立つべきとする。日本も欧米列強並みに東アジア分割に加わることを妥当とする国権論に与している。
脱亜論
福沢諭吉が1885年3月の『時事新報』に発表した論説。清・朝鮮の開明を待って連帯を強める時間的余裕はなく、むしろアジアを脱して欧米列強側に立つべきとする。日本も欧米列強並みに東アジア分割に加わることを妥当とする国権論に与している。
近代国家の成立
立憲国家の成立と日清戦争
朝鮮問題
福沢諭吉の「脱亜論」
福沢諭吉は、壬午軍乱ののち朝鮮における清国の勢力が強まったのに対し、朝鮮の改革派を援助し、彼ら自身の力で朝鮮の国内改革が推進されることを期待した。しかし、1884(明治17)年の甲申事変のとき、清国の軍事介入で改革派の勢力が朝鮮から一掃されたため、福沢の期待は失われた。翌年3月、福沢は『時事新報』紙上に「脱亜論」を発表した。その趣旨は、西洋諸国の急速な東アジアヘの勢力拡張のなかで、西洋文明を取り入れて近代化しない限り国家的独立は維持できないという認識に立ち、近代化をなしえない近隣諸国を見捨てても、日本は独自に近代化を進めて四洋諸国の仲問入りをし、朝鮮・清国にも西洋流のやり方で接するほかはないというものであった。このような脱亜論は、清国との軍事的対決の気運を高めていくことになった。