英露協商 A.D.1907〜
ドイツの世界政策やバルカン進出に対抗するため、イギリスとロシアが結んだ協約。イランに関しては北部がロシア、南東部がイギリスの勢力範囲、チベットへは両国が不干渉、を取り決めた。
英露協商
ドイツの世界政策やバルカン進出に対抗するため、イギリスとロシアが結んだ協約。イランに関しては北部がロシア、南東部がイギリスの勢力範囲、チベットへは両国が不干渉、を取り決めた。
アジア諸地域の動揺
オスマン帝国支配の動揺とアラブのめざめ
カージャール朝とアフガニスタン
アフガニスタンでは、アフシャール朝のナーディル=シャーの撤退後、これに仕えていたアフガン族ドゥッラーニー部族 Durrani のアフマド=シャー Ahmad Shah (位1747〜72)が推挙されて、国王となった。ロシアの南下とイランの進出を恐れるイギリスは、1838〜42年と1878〜80年の2度にわたりアフガニスタンに侵攻し、戦火を交えた(アフガン戦争)。いずれもアフガン諸部族民のゲリラ戦に敗れたため、イギリスは外交権を抑えアフタにスタンを緩衝国とする戦略に転じた。1893年には、イギリスの仲介によってインドとの国境線(デュアランド=ライン)が画定し、1907年の英露協商によってロシアおよびイギリスの不干渉が合意された。1919年にはアフガニスタンがインドを攻撃し、イギリスと交戦したが、停戦後アフガニスタンの独立が国際的に承認された。
- カージャール朝とアフガニスタン – 世界の歴史まっぷ