菜畑遺跡
佐賀県唐津市菜畑にある集落跡。標高10m前後の平野に面した緩やかな丘陵の先端部に立地する。日本最古とみられる稲作遺跡をともなう集落跡で、遺構は16層からなり、水田の遺構が確認されたのは縄文時代晩期後半の12層。それより上層にも弥生時代中期までの水田遺構が検出された。水田遺構は18m2余りの小さな4枚の田で、当時は直播きで栽培されたと推測されている。木製の鍬、石包丁、石斧をはじめ土器など豊富な遺物が出土した。 (講談社国指定史跡ガイドについて)
菜畑遺跡
遺物の土器は、これまで最古とされていた板付遺跡(福岡県)の夜臼式土器よりも少し古い山ノ寺式土器。
炭化米も250粒ほど出土し、そのうち100粒以上がジャポニカ種であることが判明した。
弥生時代前期の地層から、大規模な水田が営まれていたことを裏付ける水路、堰、排水口、木の杭や矢板を用いた畦の仕切りなどを発掘。これは縄文時代後期に日本で初めて水田耕作による稲作農業が行われていたことを実証するものと考えられ、1983年(昭和58)に国の史跡に指定された。現在、『魏志倭人伝』に出てくる末盧国にちなんだ「末盧館」が建てられ、遺跡から出土した炭化米や石包丁、鍬、鎌などの農業用具ほか発掘に関連した資料を展示、竪穴住居や水田跡も復元されている。JR唐津線ほか唐津駅から車で約5分。
弥生時代の成立
佐賀県菜畑遺跡や福岡県板付遺跡からは、縄文時代晩期終わりころの水田跡や田に水を引くための水路の跡などが見つかっている。板付の水田は低湿地でなく微高地に立地しており、灌漑施設を備え、畔で区画するなど、出現の当初から高い技術を用いて水田稲作を行なっていたことがわかる。木製農具を作るための石斧類や稲穂を摘むための石包丁(石包丁は、現代の包丁の役目を持つ石器ではないことに注意する必要がある)は、朝鮮半島南部の青銅器時代前期のものと極めてよく似ている。