董仲舒 ( B.C.176〜B.C.104)
董仲舒は、前漢の学者。若くして学問をきわめ、武帝(漢)に儒教を唯一の正統思想とすべきことを奏上。これがきっかけとなって儒教の国教化がすすむ。洪水、旱魃、日食、地震、異常気象などの自然災害を、君主の執政や怠慢に対して天が下した譴責であるとする災異説を唱えた。
董仲舒
災異説により儒教の地位を高める
前漢の学者。若くして学問をきわめ、武帝(漢)に儒教を唯一の正統思想とすべきことを奏上。これがきっかけとなって儒教の国教化がすすむ。洪水、旱魃、日食、地震、異常気象などの自然災害を、君主の執政や怠慢に対して天が下した譴責であるとする災異説を唱えた。
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武帝の政治
武帝(漢)は、諸侯に対して推恩の令を発布してその勢力をいっそう弱め、また地方長官の推薦による官吏の任用をはかり(郷挙里選)、董仲舒の提案によって儒学が官学とされ、礼と徳の思想による社会秩序の安定化がめざされた。さらにはじめて元号を定めるなど、皇帝の権力をいっそう強化して中央集権体制を確立した。こうして武帝の時代に漢帝国の最盛期が出現した。
漢代の文化
儒学の成立
前漢の初めは、法家や道家の思想が有力であったが、武帝(漢)のとき、董仲舒の提案により、礼と徳を重んじる儒学が統一国家を支える原理としてふさわしいということから官学とされた。中央の太学には五経博士がおかれて五経が講義され、儒学的教養をもって官吏の養成がはかられた。
ついで後漢の光武帝(漢)の保護・奨励により儒学は国家の統治理念として他の学問を圧倒したばかりか、日常生活の規範ともなって定着した。このような儒教の国教化は、その教説の固定化を招き、学者はもっぱら秦代の焚書で失われた古書の復元や経典の注釈に力を注ぐ訓詁に努め、訓詁学は後漢の馬融や鄭玄らによって大成された。一方で陰陽五行の思想も広く信じられ、王朝の交替の解釈に用いられた。