藤原不比等 A.D.659〜A.D.720
藤原不比等は、飛鳥時代から奈良時代初期の公卿。藤原鎌足の次男。大宝律令・養老律令の編纂をすすめた。藤原四家の祖。娘の文武天皇夫人の宮子、聖武天皇の皇后光明子を通して天皇家と深いつながりをもち、明治維新前まで続く藤原氏の繁栄の礎を築いた。
藤原不比等
律令国家の基礎を固め天皇から篤く信頼される
遅咲きだった大物政治家・不比等
中臣鎌足の次男である不比等が頭角を表すのは、持統期の後半からである。特に700年(文武4)、文武天皇から大宝律令をつくることを命じられて中心的役割を果たした不比等は、朝廷から大きな信頼を得た。701年(大宝1)には大納言に、708年(和銅1)には右大臣に出世した。50歳のときである。
平城京遷都や養老律令の制定などにも尽力した。
720年(養老4)、不比等の病気が重くなると、元正天皇は病気の回復を願って、罪人を釈放するなどの処置をとったという。しかし、回復にはいたらず、その年に62歳で亡くなった。不比等の死を悼んだ天皇は、不比等を太政大臣にし、正一位を贈って敬意を表した。
不比等には4人の息子のほか、文武天皇の夫人となった宮子、聖武天皇の皇后になった光明子がいた。この娘たちを通して、天皇家と深いつながりをもつようになる。明治維新前まで続く藤原氏の繁栄の礎を築いて死んでいったのである。
ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
系図
律令国家の形成
平城京の時代
藤原氏の進出と政界の動揺
8世紀初めには、皇族や中央の有力豪族たちの勢力のバランスを保ちながら、藤原鎌足の子藤原不比等を中心に律令制度の確立がはかられた。
しかし、やがて藤原氏が政界に進出するに伴い、勢力が後退していく大伴氏や佐伯氏などの旧来の有力豪族との間にはさまざまな軋轢が生じた。
皇位継承をめぐって、藤原不比等は娘の宮子を文武天皇の夫人に入れて生まれた皇子(聖武天皇)の即位をはかり、娘の光明子をも聖武天皇の夫人として、天皇家と藤原氏との密接な結びつきを築いた。不比等の子の武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4兄弟も、次第に政界に重きを占めるようになって行った。この4兄弟は、それぞれのちの藤原氏の南家・北家・式家・京家の家計の祖となった。
720(養老4)年に不比等が死ぬと、壬申の乱で活躍した高市皇子(天武天皇の皇子)の子の長屋王が政界の首班となったが、聖武天皇の次の皇位継承に不安を感じた藤原4兄弟は、729(天平元)年、策謀によって左大臣の長屋王を自殺させ(長屋王の変)、光明子を皇后に立てて天皇との結びつきを強めることに成功した。
律令国家の成立
大宝律令と官僚制
文武天皇の即位後、持統太上天皇と藤原不比等の主導のもと、刑部親王を総裁として新たな律令の編纂が進められ、701(大宝元)年、わが国において初めて、律・令ともに備わった法典として完成した。これが大宝律令である(718(養老2)年には藤原不比等らによって養老律令がつくられ、757年に施行されたが、両者は内容的には大きな変化はなかった)。
この年、約30年ぶりに遣唐使の派遣を決定したが、それは唐に対して、この独自の律令、この時に定められた「日本」という国号、天武朝に改められた「天皇」という君主号、「大宝」とされた元号という4者を唐の皇帝に報告し、その許可を得るという任務を帯びたものと思われる。
唐の冊封を受けていた新羅と異なり、独自の君主号や律令・暦を持つことを認定されることで、「東夷の小帝国」として、新羅に対する優位性を主張しようとしたのであろう。
子女
- 父:藤原鎌足(ただし、一書に天智天皇の皇子と記される)。
- 母:車持与志古娘(車持国子の女。ただし、不比等の母は鏡王女とする説が有力)。
- 妻:蘇我娼子または媼子 – 蘇我連子の女
長男:藤原武智麻呂 (680-737) – 南家祖
二男:藤原房前 (681-737) – 北家祖
三男:藤原宇合 (694-737) – 式家祖 - 妻:五百重娘 – 不比等の異母妹。もと天武天皇夫人
四男:藤原麻呂 (695-737) – 京家祖 - 妻:賀茂比売 – 賀茂小黒麻呂の女
長女:藤原宮子 (683?-754) – 文武天皇夫人、聖武天皇母 - 妻:県犬養三千代(橘三千代) – 県犬養東人の女。もと美努王妻で文武天皇と聖武天皇の乳人
三女:藤原光明子(安宿媛、藤三娘)(701-760) – 聖武天皇皇后(光明皇后)、孝謙(称徳)天皇母 - 生母不明
二女:藤原長娥子 – 長屋王室
四女:藤原多比能(吉日) – 橘諸兄室
五女?:藤原殿刀自 – 大伴古慈斐室
藤原不比等が登場する作品
同時代の人物
ムアーウィヤ (661頃〜680)
ウマイヤ朝初代カリフ。アラブ人の征服活動の進展によってカリフ権が強大になり、継承権を巡って共同体の内部には深刻な分裂が発生すると、第3代ウスマーン(正統カリフ)は不満分子によって殺され、第4代アリー(正統カリフ)も過激派の手で暗殺された。シリア総督であったウマイヤ家のムアーウィヤは、シリアのダマスクスにウマイヤ朝を開き、政治的混乱を収拾した。