藤原鎌足 (中臣鎌足)( A.D.614〜A.D.669)
中臣鎌足は、飛鳥時代の政治家。藤原氏の始祖。中大兄皇子(天智天皇)を助けて蘇我氏本宗家を滅ぼし(乙巳の変)、大化改新を断行。改新政治でも重きを成し、律令政治の基礎を築いた。臨終の際、天智天皇より最高冠位である大織冠とともに藤原姓を賜った(藤原鎌足)。
藤原鎌足
中大兄皇子と共に大化改新を推進した中心人物。初め中臣鎌子と称す。改新政府では内臣となる。669年臨終の際に、天智天皇から大織冠と藤原の姓を賜る。
大化の改新の立役者
蘇我氏の専横下で時機を待っていた中臣鎌足はなんとか状況を打破したいと考えていた。鎌足が目をつけたのが中大兄皇子である。
鎌足が中大兄皇子に接近するチヤンスが到来した。蹴鞠である。中大兄が法興寺で蹴鞠に夢中になっていたとき、うっかり空中を蹴ってしまい、沓が脱げて飛んでいってしまった。そこにいたのが鎌足だ。鎌足は沓を拾い、脆いて中兄に差し出したという。
こうして知り合った2人は、やがて打倒蘇我氏の思惑が一致し、645年(皇極4 ・大化1)、鎌足は中大兄皇子とともに、蘇我入鹿暗殺を決行した。
大化の改新では、中大兄の政治改革を支えた。667年(天智6)に行った近江大津宮への遷都や、全国的戸籍である庚午年籍の作成(670年)も、鎌足の力によるところが大きい。
669年(天智8)、鎌足は病に倒れた。天智天皇(中大兄皇子)は自ら病床を見舞い、大織冠という当時の最高の冠位を授けるとともに、藤原姓を与えた。鎌足が没したのはその翌日、56歳であった。
蘇我入鹿と中臣鎌足:唐から帰国した僧・旻のもとへ若い貴族たちは易経の講義を受けに通った。その中でも優秀な人物は蘇我入鹿と中臣鎌足であり、入鹿より鎌足のほうが優れていたと旻は語っている。
大化の改新の計画を話し合った場所から社名となった談山神社(奈良県桜井市)
律令国家の形成
飛鳥の朝廷
隋との交渉
第3次遣隋使には、渡来人の子孫8人が留学生・学問僧としてしたがったが、そのうち、僧旻は632年に、高向玄理と南淵請安は640年に、隋の滅亡と唐の成立を体験して帰国している。
彼らはいずれも学塾を開いて、隋・唐帝国の先進知識を、中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我入鹿ら倭国の次代の指導者たちに教授するとともに、中央集権国家形成の理論的指導者となった。
律令国家の成立
大化改新
中国では、618年に隋(王朝)が滅び、唐(王朝)がおこった。唐は、均田制と租庸調制を核とした律令法に基づく中央集権的な国家体制の充実をはかり、太宗(唐)の治世には、貞観の治と呼ばれる盛期を迎え、周辺諸国を圧迫していった。一方、朝鮮半島諸国では、引き続き権力集中が政治の目標とされた。
百済では、641年、義慈王がクーデターによって権力を掌握し、642年以降、新羅領に侵攻した。
高句麗では、642年、宰相の淵蓋蘇文が国王と大臣以下の貴族たちを殺し、百済と結んで新羅領をうかがった。
新羅は唐に救済を求めたが、唐が要求した女王交代の採否をめぐって、647年に内乱状態となった。
太宗(唐)は、644年から高句麗征討にのり出したが、倭国において、クーデター(乙巳の変)とそれに続く政治改革(大化改新)が行われたのは、これら東アジアの国際情勢に対応したものであった。
蘇我馬子のあとを受けた蘇我蝦夷(?〜645)は、大臣として権力をふるっていたが皇極天皇のときになると、その子の蘇我入鹿(?〜645)が、父をしのぐ実権を掌握していた。入鹿は643年に、厩戸王の子である山背大兄王(?〜643)の一族を滅ぼした。入鹿は、蘇我系の天皇のもとで蘇我氏が権力をふるうという、ちょうど高句麗と同じような権力集中を目指していたことになる。
一方、唐から帰国した留学生や学問僧から最新の統治技術を学んだものの中からは、国家体制を整備し、その中に諸豪族を編成することによって、官僚制的な中央集権国家を建設し、権力集中をはかろうとする動きがおこった。
中臣鎌足(のちに藤原鎌足 614〜669)と中大兄皇子は、645(皇極天皇4)年6月、飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を謀殺した。翌日、蘇我蝦夷も自殺し、蘇我氏本宗家は滅亡した(乙巳の変)。
同時代の人物
太宗(唐)(598〜649)
唐朝第2代皇帝。姓諱:李世民。唐王朝の実質的な建国者。隋末の混乱のなか、父李淵と関中を占拠し唐を建国。626年、兄の皇太子・李建成をクーデターによって打倒(玄武門の変)、第2代皇帝太宗(唐)に即位し、628年、群雄勢力を一掃して天下を完全に統一した。諸制度を整備して唐国家体制の基盤を確立し、東突厥を撃破し、西北遊牧民族の首長から天下汗の称号を贈られ、治世は貞観の治と称されて讃えられている。