蘇我入鹿 (不詳〜645)
飛鳥時代の豪族。皇極天皇のとき、父蘇我蝦夷をしのぐ実権を掌握。643年厩戸王の子である山背大兄王の一族を滅ぼし、権力集中をめざしたが、官僚制的な中央集権国家をめざした中臣鎌足と中大兄皇子に、645年、乙巳の変で謀殺された。
蘇我入鹿
古代きっての大豪族、大化改新の標的に
入鹿の命取りとなったや山背大兄王襲撃事件
蘇我氏は馬子のあと、その子の蝦夷が大臣になり、次いで蝦夷の子の入鹿が、父に代わって勢力を振るっていた。
622年(推古30)に厩戸王(聖徳太子)が亡くなり、その後、馬子、推古天皇が相次いで没すると、入鹿の独裁体制は顕著になった。あたかも天皇をさしおいて自らが国政を執ったといわれている。
入鹿の命取りとなったのが、643年(皇極2)に山背大兄王(厩戸王の子)を襲い、その一族を自害させた事件である。父・蘇我蝦夷でさえ怒り嘆いたというほどの暴挙であった。このような入鹿の横暴は、反蘇我派にかっこうの大義名分を与えてしまう。好機いたれりと読んだ中大兄皇子や中臣鎌足は、入鹿の暗殺を計画し、645年(皇極4・大化1)、飛鳥板蓋宮で血のクーデターを決行するのである。
父の蝦夷は、入鹿殺害の知らせを聞くと、もはやこれまでと自宅に火を放ち、自害してしまった。ここに大豪族の蘇我本宗家は減亡したのである。
稀代の極悪人として描かれる蘇我入鹿だが、その評価はほぼ『日本書紀』によったものである。しかし、『日本書紀』の記述が潤色・改変されていることは、今では常識であるため、入鹿を含む蘇我氏の評価も再考する必要があるだろう。
参考 ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
律令国家の形成
律令国家の成立
大化改新へ
蘇我馬子のあとを受けた蘇我蝦夷(?〜645)は、大臣として権力をふるっていたが皇極天皇のときになると、その子の蘇我入鹿(?〜645)が、父をしのぐ実権を掌握していた。入鹿は643年に、厩戸王の子である山背大兄王(?〜643)の一族を滅ぼした。入鹿は、蘇我系の天皇のもとで蘇我氏が権力をふるうという、ちょうど高句麗と同じような権力集中を目指していたことになる。
一方、唐から帰国した留学生や学問僧から最新の統治技術を学んだものの中からは、国家体制を整備し、その中に諸豪族を編成することによって、官僚制的な中央集権国家を建設し、権力集中をはかろうとする動きがおこった。
中臣鎌足(のちに藤原鎌足 614〜669)と中大兄皇子は、645(皇極天皇4)年6月、飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を謀殺した。翌日、蘇我蝦夷も自殺し、蘇我氏本宗家は滅亡した(乙巳の変)。
同時代の人物
アブー・バクル(573頃〜634)
初代正統カリフ。632年に預言者ムハンマドが没すると、クライシュ族の長老アブー・バクルが後継者(カリフ)に選ばれた。離反した諸部族を討伐するとともに、アラブ・イスラーム教徒のエネルギーをイラクやシリアなど「肥沃な三日月地帯」の征服活動(ジハード=聖戦)にふりむけた。