西園寺公望 さいおんじきんもち( A.D.1849〜A.D.1940)
公家出身の政治家。枢密院議長、文・外相などを歴任。1903年、伊藤博文の後を受けて立憲政友会総裁となり、明治末期に2度組閣。 パリ講和会議 の全権委員。大正後期以降は、唯一の元老として立憲政治の保持に尽力。
西園寺公望
公家出身の政治家。枢密院議長、文・外相などを歴任。1903年、伊藤博文の後を受けて立憲政友会総裁となり、明治末期に2度組閣。 パリ講和会議 の全権委員。大正後期以降は、唯一の元老として立憲政治の保持に尽力。
公家出身のリベラル政治家
公家。フランス留学を通じて自由主義思想に関心をもつ。岩倉具視と伊藤博文に認められ、伊藤の憲法調査の渡欧に同行。第2次伊藤内閣、第3次伊藤内閣の文相、伊藤のあとの政友会総裁となる。議会主義と協調外交を持論とし、2度組閣した。最後の元老として天皇の政治顧問も務めた。
近代国家の成立
日露戦争と国際関係
日清戦争後の政府と政党
立憲政友会
初代総裁は伊藤博文、幹部は西園寺公望(1849〜1940)·星亨・松田正久(1845〜1914)・片岡健吉・尾崎行雄·原敬(1856〜1921)・大岡育造(1856〜1928)らであった。かつて自由民権派として活躍した旧自由党系政治家や伊藤系の官僚が中心メンバーとなったが、伊藤は結党にあたって広く実業家・地方議員などにも入党を呼びかけ、また地主層などに多くの支持者を得た。1902(明治35)年の総選挙では190名の代議士を衆議院に送り込んで、過半数を制した(衆議院の定数は376名)。しかし、山県有朋は伊藤の立憲政友会結成に批判的立場をとり、山県系の官僚やその影響下にあった貴族院議員などは立憲政友会に参加せず、貴族院は立憲政友会と伊藤内閣の反対勢力の拠点となった。
立憲政友会を基礎として1900年10月に成立した第4次伊藤内閣は半年余りで終わったが、これを機に伊藤・山県らは第一線を退き、元老として内閣の背後から政治を動かすようになった。そして、1901(明治34)年の第1次桂内閣成立以後、山県を後ろ盾に藩閥·官僚勢力に基礎をおく桂太郎(1847〜1913)と、伊藤のあとを継いだ立憲政友会総裁西園寺公望が、交代して内閣を組織する、いわゆる桂園時代が始まった。
元老
伊藤博文・山県有朋・黒田清隆・松方正義・井上馨・西郷従道・大山巌(1842〜1916)の7人に、明治末期以降、桂太郎・西園寺公望の2人が加わった。公家出身の西園寺を除けばいずれも薩長両藩出身の藩閥政治家であり、明治時代に首相を経験した者は大隈重信を除いて、すべて元老に列せられた。元老については、憲法はもとよりそのほかの法令でも何ら明文上の規定はなかったが、彼らはいずれも明治国家の建設に大きな力があった長老級の有力政治家で、天皇の諮問に応じて重要な国務、とくに内閣更迭にあたって後継の首相を推薦したり、重要な外交問題に参画するなど、事実上、明治国家運営の最高指導者の役割を果たした。
- 日清戦争後の政府と政党 – 世界の歴史まっぷ
韓国併合
日朝関係年表
1894 (明治27年) | 3 | 甲午農民戦争(東学党の乱) | |
8 | 日清戦争勃発 | ||
1895 | 4 | 下関条約(清は朝鮮の独立を許可) | |
10 | 閔妃殺害事件(公使館守備隊による閔妃殺害) | ||
1897 | 10 | 朝鮮、国号を大韓帝国(韓国)と改称 | |
第1次桂内閣 | 1904 | 2 | 日露戦争勃発(〜05) 日韓議定書調印(日本は事実上必要な土地の収用など、便宜供与を約する) |
8 | 第1次日韓協約調印(日本政府推薦の財政・外交顧問の設置) | ||
1905 | 7 | 桂・タフト協定(米が日本の韓国保護国化を承認) | |
8 | 第2次日英同盟協約(英が日本の韓国保護国化を承認) | ||
9 | ポーツマス条約(露が韓国に対する日本の指導・保護・監理を承認) | ||
11 | 第2次日韓協約(日本が外交権を掌握して韓国を保護国化) | ||
12 | 漢城に統監府を設置 | ||
1906 | 2 | 統監府開庁(初代統監:伊藤博文) | |
第1次西園寺内閣 | 8 | 義兵運動が本格化 | |
1907 | 7 | ハーグ密使事件(韓国皇帝高宗の退位、純宗の即位) 第3次日韓協約(内政権を接収し韓国軍隊を解散) |
|
8 | 義兵運動が本格化 | ||
第2次桂内閣 | 1908 | 12 | 東洋拓殖会社(東拓)設立 |
1909 | 7 | 韓国併合を閣議決定 | |
10 | 伊藤博文暗殺事件(安重根がハルビン駅頭で殺害) | ||
1910 | 8 | 韓国併合(韓国併合条約調印)。大韓帝国(韓国)を朝鮮と改称 | |
9 | 土地調査事業の開始(〜18) | ||
10 | 朝鮮総督府の設置(初代朝鮮総督:寺内正毅) | ||
1911 | 4 | 土地収用例制定。 | |
8 | 朝鮮教育令(同化教育の推進)公布 | ||
1919 | 3 | 三・一独立運動(パゴダ公園で独立宣言) | |
1923 | 9 | 関東大震災(関東全域で「朝鮮人狩り」) | |
1925 | 4 | 治安維持法を朝鮮・台湾・樺太に公布、5月施行・朝鮮神宮の創建 |
日露戦争の勝利によって日本の大陸進出は本格化した。すでに日露戦争中の1904(明治37)年8月に日本は韓国と第1次日韓協約を結び、日本人顧問を派遣して韓国の財政と外交に介入した。翌1905年には、アメリカとの間に桂・タフト協定を取り交わし、日本の韓国、アメリカのフィリピンに対する指導権を相互に確認し合った。ついで戦後の1905(明治38)年11月には、第2次日韓協約(韓国保護協約、乙巳保護条約)を結んで日本は韓国の外交権を握り、漢城(現ソウル)に韓国統監府をおき、伊藤博文が初代統監となって統監政治を始めた。こうして日本は韓国を保護国とした。
これに対して韓国は1907(明治40)年6月、ハーグの万国平和会談に皇帝の密使を送って抗議したが、入れられなかった(ハーグ密使事件)。日本政府はこの事件をきっかけに、同年7月、韓国皇帝を退位させ、第3次日韓協約を結んで、その内政権を奪い、韓国の軍隊を解散させた。韓国内にはこれに反対して反日武装闘争の気運が活発化し、解散された軍隊も加わり義兵運動が高まったが、日本は軍隊を出動させてその鎖圧にあたった。1909(明治42)年10月、伊藤がハルビンで韓国の民族運動家安重根(アンチュングン 1879〜1910)に暗殺されると、日本は翌1910(明治43)年8月、ついに韓国併合を強行して韓国を植民地とし、その名称を朝鮮に、漢城を京城と改めて天皇直属の朝鮮総督府をおいてその統治にあたった。
朝鮮総督には武官が任命され、そのもとで総督府は地税の整理と土地調査事業を進め、1918(大正7)年に完了した。その結果、日本人地主の土地所有が拡大した反面、朝鮮の小農民で没落する者が多くなり、その一部の人々は仕事を求めて日本に移住した。
1908(明治41)年に韓国の拓殖事業を推進するための国策会社として東洋拓殖会社が設立され、農業経営や灌漑・金融事業を行った。また、日清戦争後から日本の手によって建設が進められていた京釜鉄道(京城・釜山間)が1905(明治38)年に完成し、産業の発展と軍事輸送に大きな役割を果たした。
桂園時代
日露戦争を通じて、日本の国内政治にもいろいろな変化が現れた。日露戦争後の1906(明治39)年、第1次桂内閣は退陣し、第1次西園寺内閣が成立したが、これ以後、藩閥・官僚勢力や陸軍をバックとした桂太郎と、衆議院の第一党である立憲政友会の総裁西園寺公望とが「情意投合」して交互に内閣を組織するというかたちが続き、いわゆる桂園時代が訪れた。山県有朋をはじめとする藩閥政治家の長老は元老として、各種の重要国務に参画し、後継首相の推薦などを通じて政界に隠然たる勢力をふるっていた ❶ 。
ー方、立憲政友会は原敬を中心に藩閥·官僚勢力と対抗し、これと妥協を重ねながらも、衆議院の第一党を確保し、鉄道・河川・港湾など地方の利益につながる問題を取りあげることによって、勢力地盤を拡大し、官僚や貴族院の一部にも勢力を及ぼした。
日露戦争後、軍部が中心となって大規模な軍備拡張計画が立案された。しかし、1907(明治40)年以後、不況が進み、国家の財政状態が苦しくなって財政整理が必要になると、軍拡計画も思うようには進まなくなった。
帝国国防方針
1907(明治40)年、軍部は山県有朋らが中心となって帝国国防方針を立案した。これは、陸軍はロシア・フランスを仮想敵国として17個師団を25個師団に増強し、海軍はアメリカに対抗して戦艦・巡洋戦艦各8隻を中心とする大艦隊(八・八艦隊)を建設する、というものであった。