西晋
A.D.265〜A.D.316
司馬炎が三国魏の禅譲を受けて建国した王朝。280年に呉を滅ぼし中国を統一したが、司馬炎の死後、一族の諸王の乱がおこって混乱し、台頭した匈奴によって滅んだ。
西晋
司馬炎が三国魏の禅譲を受けて建国した王朝。280年に呉を滅ぼし中国を統一したが、司馬炎の死後、一族の諸王の乱がおこって混乱し、台頭した匈奴によって滅んだ。首都は洛陽。
東アジア世界の形成と発展
北方民族の活動と中国の分裂
分裂の時代
晋(西晋)の建国
三国時代(中国)でもっとも優勢であったのは、華北の大半を支配した魏であった。魏は、後漢末から遼東地方(中国の東北地方)に自立していた公孫氏の政権を倒し、高句麗を討ち、朝鮮の楽浪・帯方の2郡も抑えて領域に加え(邪馬台国の女王卑弥呼が、帯方郡に使者を派遣し魏に朝貢したのは、この翌年(239)のこととされる。)、やがて蜀も滅ぼした(263)。
しかし、魏の帝室は曹丕(文帝)ののち、一族の間での争いからしだいに力を失い、かわって勢力を蓄えたのは司馬氏であった。蜀を滅ぼして2年後、魏の将軍司馬炎は皇帝の位について(武帝)晋(西晋)を建国した。
司馬炎(武帝)は洛陽を都とし、280年には江南の呉を滅ぼして中国を統一した。武帝は、権力の維持にあたって一族を各地に王として報じ、軍権を与えるなど大きな権力をもたせて、帝室の守りにしようとしたが、かえって皇帝の権力を弱めることになった。
八王の乱
武帝のあと恵帝(西晋)が即位すると、これらの諸侯は外戚の政権争いに乗じて皇帝の後継者をめぐる争いを始めた(八王の乱)。
さらに官僚たちの間では、実際の役に立たない議論をたたかわせるばかりで国家の危機的状況をかえりみない風潮(清談の風)がおこった。八王の乱のなかで兵力として活躍したのは、中国内地に住みついていた北方や西方からの遊牧民であり、これらが勢力をのばして各地で自立をはかり、晋の支配をくつがえした。
永嘉の乱
魏・晋代に今の山西の地に住み着いていた南匈奴は、漢人とは異なった遊牧を中心とする生活を送っていた。また、陝西〜甘粛にかけては、氐や羌などの諸民族が住みついていた。このうち、まず山西の南匈奴が優勢となり、都の洛陽を攻略し、ついで長安を攻めて皇帝を捕虜にし西晋を滅ぼした(316・永嘉の乱)。
その子の劉聡のとき、洛陽を陥れて懐帝(西晋)を捕虜にし(311年)、316年には長安の愍帝(西晋)を降ろして西晋を滅ぼした。こうして華北は五胡十六国時代に入り、漢人豪族のひきいる流民集団は時に塢と呼ばれる城塞をつくって自営したり、江南に復興した東晋政府を頼って南に移住したりした。このような時代を背景に、東晋の詩人陶淵明は『桃花源記』で、戦乱を避け山中で自給自足の生活を送る集落を理想化して描いている。
東晋の建国
このため江南の軍司令官であった司馬氏の王族のひとり司馬睿は、317年かつての呉の都であった建業(建康と改称)で皇帝の位につき(元帝(東晋))、晋を復興した。これを統一時代の晋(西晋)と区別して東晋(317〜420)という。
歴代皇帝
- 司馬懿は、司馬炎によって、高祖宣帝と追号された。
- 司馬師は、司馬炎によって、世宗景帝と追号された。
- 司馬昭は、司馬炎によって、太祖文帝と追号された。
- 世祖武帝(司馬炎、在位265年 – 290年)司馬昭の長男
- 孝恵帝(司馬衷、在位290年 – 306年)先代の次男
- 孝懐帝(司馬熾、在位306年 – 311年)先代の異母弟
- 孝愍帝(司馬鄴、在位313年 – 316年)先代の甥