西遼
西遼は、1132年から1211年までトルキスタンに存在した国。1125年、金朝に滅ぼされた遼の王族である耶律大石がトルキスタンに逃れ、トルコ系のイスラーム教国であるカラ・ハン朝(940〜1132)を滅ぼして、西遼を建国。都をベラサグンにおいた。
西遼
東アジア世界の形成と発展
東アジア諸地域の自立化
金の成立と西遼
遼(遼朝)は帝室の内紛により混乱し、また中国文化になじんで遊牧民独自の精悍さが失われつつあり、国力は衰退していた。
金朝は第2代太宗呉乞買のときに宋と結んで遼朝を攻め、1125年、遼の天祚帝を捕らえてついに遼を滅ぼした。
遼の太祖耶律阿保機の8世の孫と称する王族の耶律大石(徳宗)は、支配下にあった部族を率いて西トルキスタンに逃れ、この地にあったトルコ系のイスラーム教国であるカラ・ハン朝(940〜1132)を滅ぼし、西遼(カラ・キタイ)(1132〜1211)を建国し、都をベラサグンにおいた。西遼の支配圏は東西トルキスタンに及び、遼文化をしばらくこの地に保持した。
カラ・キタイとは黒い契丹という意味。
またウイグル商人やムスリム商人と結んで、東西交易路をおさえ、西方世界と東方世界の文化的交流にも大きな役割を果たした。
1211年、西遼は、チンギス=ハンに攻撃されて西走してきたモンゴル族ナイマン部の王子クチュルクによって王位を簒奪され(第一次対金戦争)、さらに1218年、西征してきたモンゴル軍によって滅ぼされた(第二次対金戦争)。