親鸞 しんらん( A.D.1173〜A.D.1262)
浄土真宗開祖。教義:一向専修・悪人正機(罪深い悪人こそが、阿弥陀仏が救済しようとする)。布教対象:関東、のちに北陸・東海・近畿の武士・農民、とくに下層農民。主著:『教行信証』・弟子の唯円が師の思想を『歎異抄』にまとめる。中心寺院:本願寺(曾孫の覚如が建立)。
親鸞
「悪人正機」を説いた浄土真宗の開祖
凡夫に救いをもたらした悪人正機説
「善人なをもて往生をとぐいはんや悪人をや」
親鸞の回伝を記した『歎異抄』の中に残る言葉である。ここでいう「善人」とは、仏道修行に専念しながら善行を積むことができる人のこと。「悪人」とは凡夫、すなわち仏道修行を行えず善行を積むことができない人を指す。「悪人」は永遠に救われないのか。
親鸞はいった。「阿弥陀仏の本願はそうした悪人を救うことにあり、悪人こそが往生にふさわしい資格をもつのである」と。
親鸞は比叡山で修学したあと、京の六角堂に百日参籠したとき、夢に厩戸王(聖徳太子)が出現、その示現により法然の弟子となった。
専修念仏の道を歩むことになった親鸞だが、旧仏教側の圧迫による念仏弾圧により、法然とともに処罰され越後国に配流。赦免後も京には戻らず東国へ行き20数年にわたり、関東で布教活動を行った。この布教を通じて、親鸞は自分の教えが民衆とともにあることを実感する。
親鸞の教えは、人間の無力さを自覚することから始まる。自力救済の限界を自覚し、阿弥陀仏の力を絶対視する。親鸞はそこに、仏教の原点である「衆生救済」を見たのである。
その後、親鸞は京に戻り、晩年を過ごした。1262(弘長2)年没。師の法然同様、念仏に生きた生涯であった。
中世社会の成立
鎌倉文化
鎌倉仏教
親鸞と浄土真宗
親鸞(1173~1262)は藤原氏の末流、日野有範の子として京都に生まれ、9歳で出家して比叡山にのぼり、29歳で法然の門弟になった。法然が讃岐に流されたときに彼も越後に流され、赦免後も同地にとどまった。のち常陸に移って東国の農民に教えを広め、63歳で帰京し、90歳で同地に死去した。彼は阿弥陀仏を信仰する気持ちをおこし念仏を唱えれば、その瞬間に極楽往生が約束されると説いた。また、罪深い悪人こそが、阿弥陀仏が救済しようとする対象であるという悪人正機の説を強調した。彼は自ら妻帯肉食し、農民のなかに進んで入っていった。彼の教えは多くの農民の信者を得たが、法然同様、親鸞自身は一宗を開く意思をもたなかった。だが彼の死後、東国の弟子たちは下野高田に専修寺派を立て、親鸞の曾孫覚如(1270〜1351)は本願寺派を立て、いわゆる浄土真宗の教団が形成されていった。親鸞の主著は『教行信証(正式には顕浄土真実教行証文類)』であり、弟子の唯円の師が思想を『歎異抄』にまとめて後世に多大な影響を与えた。
鎌倉仏教
系統 | 浄土宗系(他力本願) | 天台宗系 | 禅宗系(不立文字) | |||
念仏 (南無阿弥陀仏) | 題目 (南無妙法蓮華経) | 禅 | ||||
宗派 | 浄土宗 | 浄土真宗 | 時宗 | 日蓮宗 | 臨済宗 | 曹洞宗 |
開祖 | 法然 | 親鸞 | 一遍 | 日蓮 | 栄西 | 道元 |
教義 | 専修念仏 | 一向専修 悪人正機 | 踊念仏 賦算 | 題目唱和 | 坐禅 公案 (禅問答) | 只管打坐 |
布教対象 | 京都周辺の 公家・武士 | 関東、のちに 北陸・東海・ 近畿の 武士・農民、 とくに下層農民 | 全国の武士・ 農民層 | 下級武士・ 商工業者 | 京・鎌倉の 上級武士、 地方の 有力武士 | 地方の 中小武士・ 農民 |
主著 | 選択本願念仏集 一枚起請文 | 教行信証 歎異抄 | 一遍上人語録 | 立正安国論 開目抄 | 興禅護国論 喫茶養生記 | 正法眼蔵 正法眼蔵随聞記 |
中心寺院 | 知恩院(京都) | 本願寺(京都) | 清浄光寺(神奈川) | 久遠寺(山梨) | 建仁寺(京都) | 永平寺(福井) |