豊臣秀頼 とよとみひでより( A.D.1593〜A.D.1615)
豊臣秀吉と側室淀君の次男として生まれ、豊臣政権の後継者として養育されたが、側近の石田三成を嫌う諸大名の求心力がなかった。しかし、秀吉の遺領大坂をよく治め、民衆から慕われていた。正室は母淀君の実妹崇源院の子・千姫。大坂の陣で家康に敗れ、淀君とともに自害。
豊臣秀頼
豊臣秀吉の次男として生まれ、豊臣政権の後継者として養育されたが、側近の石田三成を嫌う諸大名の求心力がなかった。しかし、秀吉の遺領大坂をよく治め、民衆から慕われていた。
秀吉の忘れ形見、大坂に散った悲劇の大名
家康を警戒させた貴人の風格
豊臣秀頼は徳川家康に対面するため京二条城に向かっていた。関ヶ原の戦いの敗戦からすでに11年、世は徳川の時代となっていた。その間秀頼も権大納言、内大臣、右大臣と叙されており、貴人の風格を備えていたようだ。19歳の凛々しいこの公達大名の姿に、沿道の人々は涙したともいう。会見に臨んだ家康は、その見事な成長ぶりに目を見張り、これから徳川の世を磐石にせしめるにあたって大きな障害になる
と危惧した。
家康との会見で凡庸ならざる風格を印象づけた秀頼。しかし、最大の正念場だった大坂の陣では、総大将でありながら、身の危険を案じた母淀殿の言葉に従い、城を守る将兵の前にも姿を現さなかつたという。最期は大坂城を徳川軍に囲まれ、家康の孫娘で正室の千姫を介して助命を願ったが叶わず、母とともに自害した。側室との間に一男一女があり、千姫とも仲睦まじかったといわれ、母にも逆らわず、そうした一面は民衆から愛され、九州ヘ落ち延びたという伝承を残している。
秀頼は、その存在自体が悲劇の種であった。豊臣秀吉が、関白職を譲り後継者と指名した甥の豊臣秀次を一門ごと葬った事件も、将来の豊臣家相続を懸念しての秀頼への溺愛からだという。また関ヶ原の戦いで家康、石田三成両者から互いの挙兵の大義に利用されたのも、当時秀頼は8歳で自分の意思を表することができなかったためであろう。秀頼は大閤秀吉の後継者という宿命に克つことができなった。
幕藩体制の確立
織豊政権
豊臣秀吉の全国統一
全国統一を終えた1591(天正19)年、秀吉は関白の地位を甥の豊臣秀次(1568~95)にゆずるとともに緊楽第を与えたが、その後秀吉に実子豊臣秀頼(1593〜1615)が誕生したことから秀次との関係が悪化し、1595(文禄4)年、謀反を企てたという理由で秀次を処刑した。聚楽第もこのときに破却され、以後、豊臣政権の政庁は秀吉が隠居城として新築した伏見城に移った。
幕藩体制の成立
江戸幕府の成立
家康は1603(慶長8)年、全大名に対する指揮権の正統性を得るため征夷大将軍の宣下を受け、江戸に幕府を開いた。関白ではなく征夷大将軍を選んだのは、同じ官職制度のなかで豊臣秀頼と競うのを避け、いち早く豊臣政権から独立し、諸大名を戦争に動員し、指揮する武家の棟梁としての正当性を得るためであった。
家康にしたがわない秀吉の子豊臣秀頼は依然として大坂城におり、摂津·河内・和泉3カ国65万石余りの一大名になったとはいえ、名目的には秀吉以来の地位を継承しているかにみえた。1605(慶長10)年、家康は将軍職が徳川家の世襲であることを諸大名に示すため、自ら将軍職を辞し、子の徳川秀忠(1579〜1632)に将軍宣下を受けさせた。駿府に隠退して大御所と称した家康は、実権を握り続け、ついに1614(慶長19)年、方広寺の鐘銘事件をきっかけに、10月大坂冬の陣を引きおこし、12月いったん和議を結んだ。翌1615(元和元)年4月大坂夏の陣を戦い、5月大坂城陥落、淀君(1567〜1615)·秀頼母子の自害によって戦いは終わった。ここに「元和偃武」と呼ばれる「平和」の時代が到来した。