趙匡胤
趙匡(故宮博物院蔵)©Public Domain

趙匡胤


恭帝

太宗(宋)

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趙匡胤 A.D.927〜A.D.976
趙匡胤ちょうきょういんは、宋(北宋)初代皇帝(在位960〜976)。武人として後周に仕えた。7歳の恭帝(柴宗訓)の即位後、部下に推され、禅譲により960年開封(汴州)を都に宋を建国。門閥貴族の風潮をおさえるため文治主義をとり、節度使勢力の削減に努めた。また科挙の整備をはかり、皇帝がみずから試験官となる殿試を実施し、皇帝独裁体制を強化した。

趙匡胤

後周の武将から宋王朝の太祖へ

契丹と北漢の連合軍が後周をせめてきたとき、禁軍(親衛隊)の総司令官である殿前都点検の職にあった趙匡胤ちょうきょういんは、後周・世宗の命を受け迎撃に向かった。ところが、その世宗(後周)は急死してしまう。跡を継いだのはわずか7歳の恭帝(後周)で、禁軍将兵のあいだに動揺が走った。幼帝では論功行賞ができない。そこで彼らは陳橋駅ちんきょうえきで政変を起こし、趙匡胤を皇帝に推戴した。趙匡胤はこれを受けて宋王朝を開き、江南に割拠していた荊南・楚・南漢・後・南唐を次々と滅ぼして、全土の大半を統一した。そのかたわら、節度使からの兵権・民政権・財政権の剥奪などにより、君主独裁の中央集権体制をつくっていった。

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東アジア世界の形成と発展

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東アジア諸地域の自立化

宋の統一

後周の世宗(柴栄さいえい)が没すると、その動揺をねらって北方の遼が南下した。
960年、これを防ぐため出陣した節度使趙匡胤ちょうきょういんは、その途上で配下の将兵に擁立されて、そのまま開封に帰還し、後周の恭帝(柴宗訓)から国を譲られて皇帝に即位した(太祖)。そして国号を宋と改め、開封(汴京べんけい)を都とした。
太祖趙匡胤は、その後十余年間につぎつぎと各地の地方政権を平定し、弟の第2代太宗(趙匡義)は、最期まで残っていた十国の越と北漢を滅ぼし、979年、中国の統一を完成した。

李朝 西夏遠征 甘州ウイグル王国 国際関係の変化 西夏の成立 遼の成立 宋の統一 遼朝 天山ウイグル王国 西夏 カラハン朝 北宋 11世紀の東アジア地図
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宋は、これまでの藩鎮勢力の乱立や武断政治の風潮を改めるため、徹底した文治主義の政策をとった。
まず、地方では、軍事・行政機構としての 藩鎮を解体し、その精兵はすべて皇帝直属の中央軍たる禁軍(親衛軍)に吸収した。
また、藩鎮の掌握する行政・財政権も回収し、州県の長官(知州・知県)には中央から文官を派遣した。
また中央では、軍事行政や作戦計画をつかさどる機関として 枢密院をおき、その長官には文官を任命して、武人を政治から排除した。
このように中央集権力を強固にし、地方権力をひたすら抑止する政策は宋の基本的な統治理念となり、君主権は飛躍的に強化された。
さらに皇帝を頂点とする中央集権的官僚制国家の形成を推進したのが、隋代にはじまった官吏登用制度である 科挙の改革である。
すなわち、それまでの地方でおこなう州史しゅうしと中央の尚書省礼部でおこなう省試しょうしに、最終選考で皇帝みずからが試験官として問題を布告する 殿試でんしが加わって3段階となった。
この皇帝による殿試が採用されたことで、官僚と皇帝が直接結ばれ、皇帝を中心とする官僚体制は、いっそう強固なものとなった。また宋代以降、科挙の内容は儒教の教養が根本となり、幼少時からの猛烈な受験勉強の末、科挙の難関を突破していったのは、主として富裕な地主階層の子弟であった。こうして、地主=官僚=知識人という3つの性格をあわせもつ、 士大夫したいふ階級と呼ばれる宋代の支配階層が形成されたのである。
宋代には、あらゆる面で君主独裁体制が確立され、以後、明・清へと継承されていった。

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