醍醐天皇 (885(元慶9)〜930(延長8)年)
在位897〜930。宇多天皇の息子。天皇親政を実施(延喜の治、延喜の国政改革とも)。藤原時平の讒言で、藤原道真を太宰府に左遷。延喜の荘園整理令の発布、『三代実録』『延喜格式』『古今和歌集』の編纂など、律令政治の復興に努めた。
醍醐天皇
在位897〜930。宇多天皇の息子。天皇親政を実施(延喜の治、延喜の国政改革とも)。藤原時平の讒言で、藤原道真を太宰府に左遷。延喜の荘園整理令の発布、『三代実録』『延喜格式』『古今和歌集』の編纂など、律令政治の復興に努めた。
貴族政治と国風文化
荘園と武士
国司の地方支配
政府は醍醐天皇の902(延喜2)年、延喜の荘園整理令を出して、法にそむく荘園の停止を命じ、班田の励行をはかるなどして令制の再建をめざしたが、これを実施する過程で、もはや律令制の原則では財政を維持することが不可能になっていることを知った。
延喜の荘園整理令
この荘園整理令はのちの整理令の出発点になったもので、「院宮王臣家」と称される権門勢家が諸国の百姓と結んで土地を私有化することを禁じている。その内容自体は特別に新しいものではなかったが、それまで出された法令を集成して、新たな意気込みで立て直しをはかったものである。
しかし、諸国の国務の妨げにならないものは認めるという例外規定は、かえって荘園の公認を意味することにもなり、むしろ各地では荘園の公認を求める動きが活発化した。
戸籍の実態
902(延喜2)年の阿波国田上郷の戸籍では、5戸453人の内訳は男59人・女376人となっていて、調・庸が課せられる男子の数を少なくしようと作為したあとが明らかである。これからもわかるように、当時の戸籍は実態から離れたものになって、それに基づく班田制の実施もしだいに困難になり、902(延喜2)年を最後に、班田の史料はみられなくなった。
914(延喜14)年、三善清行は醍醐天皇に「意見封事十二ヶ条」を提出して、地方政治の混乱ぶりを指摘しているが、そこで主張されている律令支配への復帰はもはや不可能だった。
「延喜・天暦の治」とうたわれ、のちに天皇親政の理想的時代と讃えられた10世紀初めは、実は律令体制の変質がはっきりし始めた時代であった。
政府は、まもなく方針を転換して、国司に一定額の税の納入を請け負わせ、一国内の統治をゆだねる国司請負の方針を積極的にとり始めた。これまでは中央政府の監督のもとで国司が行政にあたり、税などの徴収や文書の作成は郡司が行ってきたのであるが、それを大きく転換したことで、地方政治の運営において国司の果たす役割は大きくなった。国司の役所である国衙は、以前よりも重要な役割をもつようになり、律令制のもとで地方支配を直接に担ってきた郡家の役割は衰えていった。
任国に赴任した国司のうち最上席の長は受領と呼ばれ、巨利をあげるため強欲なものが多かったので、任地で郡司や有力農民から暴政を訴えられる場合がしばしばあった。大宰府の受領の大宰大弐藤原惟憲は京に上った際に、「随身の珍宝はその数を知らず、九州二島の物、底を払って奪取る」と称されたほどであり(『小右記』)、『今昔物語集』には、当時の受領の貪欲さを物語る話が多くみえている。信濃守藤原陳忠は、京へ帰る際に谷底に落ちたが、はい登る途中に生えていた平茸を取ることを忘れなかったという。
受領
受領は本来、前任者の事務を引き継ぐことであり、転じて前任国司の事務を引き継ぎ、国内の事務の責任を担う上席の国司を称するようになった。多くは国の守であったが、新王の任国とされた上総・上野・常陸では介であり、大宰府では帥か大弐であった。身分は多くは五位と低かったが、その経済力は高く、摂関期には摂関に従属して経済的な奉仕を行い、院政期には院の重要な政治的基盤ともなった。