重源 ちょうげん( A.D.1121〜A.D.1206)
真言・浄土宗の僧。3度にわたって入宋し、そのたびに多くの仏像、経典をもたらし、新しい土木技術なども習得して伝えた。治承・寿永の乱で消失した東大寺の勧進上人に選ばれ、資金集めから建築までを指揮した。大仏様を用いて建てられた東大寺南大門、浄土寺浄土堂が遺構として残る。
重源
東大寺を復興させた勧進上人
真言・浄土宗の僧。3度にわたって入宋し、そのたびに多くの仏像、経典をもたらし、新しい土木技術なども習得して伝えた。治承・寿永の乱で焼失した東大寺の復興に努め、資金集めから建築までを指揮した。東大寺のほか播磨国浄土寺など寺の建立も多い。
ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
中世社会の成立
鎌倉文化
芸術の新傾向
鎌倉時代の建築は、平重衡に焼かれた東大寺の再建という一大事業とともに、新しい歩みを始めた。
1181(養和元)年、朝廷から東大寺再建の勧進上人に選ばれたのは、当時61歳の俊乗房重源(1121~1206)であつた。彼は陳和卿を起用して大仏を鋳造し、ついで大仏殿の再建に取り組んだ。いくつかの地域に拠点を築いて資金・資材を調達し、1195(建久6)年に大仏殿を再建した。このときに用いられた建築様式が大仏様(天竺様)であり、各拠点にも大仏様の仏堂が建てられた。
重源は3度も宋に渡ったと称しているが、豪放で変化に富み、美しい構造をもつこの大仏様は、宋(王朝)の江南・福建地方の様式を取り入れたものである。しかし、豪放な表現が一般になじまない、技術的な困難がある、などの理由で重源死後は用いられなくなり、東大寺南大門・浄土寺浄土堂などが遺構として残された。ただし、大仏様の細部の手法は従来の和様建築にも使用された。
大仏様:東大寺復興にあたり重源が採用した中国南方の雄大豪壮な建築技術。貫と柱を組み込んで構造を強化し、柱の途中に差し込むように組物をつけた挿肘木で、巨大な屋根を支える。