閑院宮 かんいんのみや( A.D.1718〜A.D.1947)
6代将軍家宣のとき創設された宮家(世襲親王家)。近衛基熙が太政大臣、息子の家熙が関白となって中枢を占めると、基熙の娘は、家宣の正室でもあり、幕府と朝廷の協調関係が増した。それまでは伏見·桂・有栖川の3家しかなく、天皇の子弟の多くが出家して門跡寺院に入室している状態の改善のため、閑院宮家を設けた。1947(昭和22)年皇籍離脱。
閑院宮家
幕藩体制の展開
幕政の安定
正徳の政治
家宣は、綱吉の政治を支えた柳沢吉保を排除し、かわって側用人間部詮房(1666〜1720)と儒者新井白石(1657〜1725)を信任して、政治の刷新をはかった。
まず生類憐み令を廃止し、賄賂を厳禁した。しかし、服忌令をはじめとして前代の忠孝・礼儀の政治は受け継がれ、朝廷との協調関係も増した。朝廷では、霊元天皇をおさえ込んだ近衛基熙(1648〜1722)が太政大臣となり、息子の近衛家熙(1667〜1736)が関白となって中枢を占めた。近衛基熙の娘は、将軍家宣の正室でもあり、幕府と朝廷の協調は、閑院宮家創設となって具体化した。それまで宮家(世襲親王家)は伏見·桂・有栖川の3家しかなく、天皇の子弟の多くが出家して門跡寺院に入室している状態を少しでも改善しようと、幕府は費用を献じて特例として閑院宮家を設け、以後4宮家は幕末まで存続した。