陸象山


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陸象山 (陸九淵)( A.D.1139〜A.D.1192)

南宋の儒学者・官僚。朱熹が学問や知識を重視して客観的な概念論を説いたのに対し、同時代の陸九淵りくきゅうえん陸象山りくしょうざん)は、人間の心性を重視し、心の中にこそ理は内在すると説き(心即理)、認識と実践の統一をはかる主観的な唯心論を説いた。この説は、のちに明の王陽明おうようめいによって陽明学として発展させられた。

陸象山

朱熹の最大の論敵

南宋の儒学者。朱熹しゅきが、「性即理」を説いたのに対し、陸九淵は、人間の心は元来「理」であるとし、これを「心即理しんそくり」と表した。知識よりも道徳の実践を重んじ、朱熹と激しい論戦を繰り広げた。友人としての交流もあり、朱熹は陸九淵の死を嘆いたという。

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東アジア世界の形成と発展

遼朝
東アジア世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

東アジア諸地域の自立化

宋代の文化

唐(王朝)文化が国際的で異国情緒にあふれていたのに対し、宋の文化は遼朝・金朝・西夏の異民族の圧迫もあって、国粋的な傾向が強く、伝統的な民族文化に根づいた中国的なものであった。
また、優雅で華麗な唐(王朝)の貴族文化とは異なり、新しい支配層である地主・官僚などの士大夫階級を中心に、学問・思想・文学・芸術などで、形式美にとらわれない内省的で理知的な文化が発達した。こうした宋代の文化の発達は士大夫階級だけでなく、都市の経済的発展により登場してきた新興の庶民階級にも波及し、文芸や工芸の分野で新たに庶民文化が栄えた。

学問・思想

経典の字句の解釈ばかりにとらわれた漢代〜唐(王朝)の訓詁くんこ学を否定し、宇宙を貫く哲理や人間の本質について深い思弁をめぐらし、同時に知の実践を重んじる宋学という新しい儒教思想が誕生し、開花した。北宋周敦頤しゅうとんいは、『太極図説』を著し、宇宙の原理から道徳の根本理念を解き明かし、宋学の祖となった。宋学は弟子の程顥ていこう程頤ていい兄弟に受け継がれ、やがて南宋の朱熹しゅきによって集大成され、宋学の最高峰として朱子学と称される。
朱熹は、万物の根源を宇宙万物を貫く原理たる「理」と物質を成り立たせている根本元素たる「気」に求め(理気二元論)、宇宙の「理」が人間に宿ったものである「本然の性」(理性)こそが人間のあるべき本質であるとした。(性即理)そして欲望や感情を抑えて「本然の性」を十全に発現させるための修養を説き、宇宙の万物に内在している「理」をひとつひとつ極めていくことを修養の本質として提示した(格物致知かくぶつちち)。また漢代以来、儒学の経典として尊重されてきた五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)よりも、『大学』『中庸』『論語』『孟子』を高く評価し、これに注釈をほどこして四書と称した。

こうした朱子学は、元(王朝)明(王朝)から清(王朝)の初期に至るまで儒学の正統とされ、さらに朝鮮王朝や日本の江戸幕府でも官学として尊重された。

朱熹が学問や知識を重視して客観的な概念論を説いたのに対し、同時代の陸九淵りくきゅうえん陸象山りくしょうざん)は、人間の心性を重視し、心の中にこそ理は内在すると説き(心即理)、認識と実践の統一をはかる主観的な唯心論を説いた。この説は、のちに明の王陽明おうようめいによって陽明学として発展させられた。( 明後期の社会と文化

朱子学

朱子学は元代に科挙の科目となったことから、官学としてさかんになった。やがて清代になると、朱子学にかわって文献を重視する実証的な考証学が栄えた。

参考:宋代の文化 – 世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

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