青年イタリア
青年イタリア(Giovine Italia)(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

青年イタリア


青年イタリア Giovine Italia( A.D.1831〜A.D.1848)
1831年、マッツィーニが亡命先のマルセイユで組織した政治結社。共和主義と民族統一を掲げ、民衆の支持を得ようと度々蜂起したが、ことごとく失敗に終わった。弾圧を受けて衰退し、43年に再結成され、49年ローマで蜂起し、ローマ共和国の建国を宣言したが、反動化したローマ教皇の要請によって出動したフランス軍のため、この政府は崩壊し青年イタリアも実質的に消滅した。

青年イタリア

1831年、マッツィーニが亡命先のマルセイユで組織した政治結社。共和主義と民族統一を掲げ、民衆の支持を得ようと度々蜂起したが、ことごとく失敗に終わった。弾圧を受けて衰退し、43年に再結成されたが、48年実質的に消滅した。

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欧米における近代国民国家の発展

ウィーン体制

七月革命とその影響
正統主義 ウィーン体制 ウィーン会議 ウィーン体制下のヨーロッパ地図
ウィーン体制下のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

七月革命によってウィーン体制の一部が崩壊したことは、ヨーロッパ各国に衝撃を与えた。イタリアでは、カルボナリが蜂起したが失敗し(カルボナリの反乱)、その党員であったマッツィーニは亡命先であるマルセイユにおいて秘密結社から大衆政党へと脱皮すべく「青年イタリア」 Giovine Italia を結成した。イギリスでは国内経済の停滞もあって地主支配への不満が高まり、32年には腐敗選挙区を廃止する第1回選挙法改正が実現している。

1848年の革命
1848年革命地図
1848年革命地図 ©世界の歴史まっぷ

イタリアでは統一をめざすリソルジメント運動 Risorgiment が各地で高揚することになった。北イタリアではオーストリアがヴェネツィアやロンバルディア地方というイタリア人居住地区を支配していたので、これに対する抵抗運動が激化した。サルデーニャ王国のカルロ=アルベルトは国王即位時から自由主義者として知られ、国民の期待もあって1848年、北イタリアの統一をめざしてオーストリアと開戦した。しかし、ラデツキー率いるオーストリア軍にノヴァラの戦い(49年3月)で敗北し、近隣諸国の支援もなかったため彼は国王の地位を捨てざるを得ず、統一は実現できなかった。

ラデツキーの功績を記念して、ヨハン=シュトラウス1世(父 Johann Strauβ 1804〜49)が「ラデツキー行進曲」を作曲した。

一方、マッツィーニ率いる青年イタリアは49年ローマで蜂起し、ローマ共和国の建国を宣言したが、反動化したローマ教皇の要請によって出動したフランス軍のため、この政府は崩壊した。

ヨーロッパの再編

イタリアの統一
三国同盟 未回収のイタリア イタリアの統一 イタリア統一戦争 ドイツの統一 プロイセン=オーストリア戦争 イタリアとドイツの統一地図
イタリアとドイツの統一地図 ©世界の歴史まっぷ

イタリア南部ではカヴールの支援をうけた青年イタリアに属するガリバルディ赤シャツ隊(千人隊)を率いてシチリアに上陸し、さらに進撃してイタリア半島南部を占領し、ローマをうかがう情勢となった。この動きに危機を察し、共和主義の浸透に警戒心を持つカヴールはさまざまな干渉をおこなってその進路を妨害した。急遽南下を急いだヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の軍隊はモンテクローチェでガリバルディと会見して占領地をサルデーニャ王に献上させた。こうしてトリノを首都とし、ヴェネツィア・教皇領をのぞくイタリア王国が1861年3月成立した。その後ヴェネツィアは1866年のプロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)に参戦することで、教皇領は70年のプロイセン=フランス戦争の際に王国に編入された。ローマ教皇はこれに反発して「ヴァチカンの囚人」と称して対立を続けた。その他、トリエステ・南チロル(トレンティーノ)・イストリア・ダルマティアなど「未回収のイタリア」と呼ばれるイタリア人居住地域の回復をめざす領土問題が、20世紀に入っても継続した。

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