非戦論
日露戦争に反対する主張。内村鑑三らの人道主義的非戦論、幸徳秋水ら平民社グループの社会主義的反戦論、与謝野晶子・大塚楠緒子らのロマン主義的厭戦詩など。
非戦論
日露開戦への道
主戦論 | 非戦論・反戦論 |
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日露戦争(1904.2〜05.9) |
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日露戦争に反対する主張。内村鑑三らの人道主義的非戦論、平民社グループの社会主義的反戦論、与謝野晶子・大塚楠緒子らのロマン主義的厭戦詩など。
近代国家の成立
日露戦争と国際関係
日露戦争
日露戦争前の国内世論
民間においては、対露強硬論の気運が高かったが、とくに大きな役割を果たしたのは新聞であった。ロシアが清国との協定で、満州からの第2次撤兵を約束した期限は1903年10月8日であったが、実行されなかったため、『大阪朝日新聞』『東京朝日新聞』『万朝報』『二六新報』など発行部数が1日10万部前後の有力新聞は、ほとんど対露開戦論一色となった。そして対露外交交渉の妥結に期待して開戦の断を下そうとしない政府首脳や元老たちを弱腰だとして激しく弾劾し始めた。なかでも強硬だったのは『二六新報』で、「現内閣を倒して主戦内閣を作るは、目下の急務也」と公然と桂内閣の打倒を唱えた。同年10月以前には、内村鑑三(1861〜1930)らキリスト教的人道主義者や社会主義者幸徳秋水(1871〜1911)らの非戦論の主張も掲載していた『万朝報』が、社論を開戦論に一本化し、開戦反対派の代表格とみなされていた元老伊藤博文枢密院議長を厳しく非難して、その引退を勧告する社説をかかげた。これに対し、政府系で発行部数2万〜3万部の『東京日日新聞』や『国民新聞」は、外交交渉による解決を説き、実業界も戦争が財政上・経済上に悪影響を及ぼすことを憂慮して、戦争回避を希望していた。また、社会主義者たちの『平民新聞』(週刊)も反戦論を叫んだ。しかし、発行部数のはるかに少ないこれらの新聞·雑誌の主張は、とうてい世論を動かすにはいたらなかった。
非戦論
日露戦争に対する国民の熱狂的歓呼が渦巻くなかで、少数ながら戦争反対を唱えた人々もあった。内村鑑三はキリスト教的人道主義の立場から非戦論を説き、幸徳秋水・堺利彦(1870〜1933)ら社会主義者は初め『万朝報』、のち『平民新聞』によって反戦論を展開し、開戦後もロシアの社会主義者に反戦を呼びかけた ❶ 。また与謝野晶子(1878〜1942)は、日本軍の旅順攻撃が続けられているころ、これに加わっている弟の無事を祈って、戦争への疑問をこめた詩「君死にたまふこと勿れ」を発表した。
ジャーナリズムの発達
おもな新聞
新聞名 | 創刊年 | 内容 |
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横浜毎日新聞 | 1870 | 神奈川県令の尽力で発刊された日本最初の日刊新聞。民権派 |
日新真事誌 | 1872 | 英人ブラックが東京で創刊。「民撰議院設立建白書」を掲載 |
東京日日新聞 | 1872 | 岸田吟香・福地源一郎らが入社。長州閥系御用新聞 |
郵便報知新聞 (のち報知新聞) | 1872 | 大新聞(自由民権運動期の政治評論を中心とする新聞)の代表。前島密の支持により創刊。立憲改進党機関誌となる |
朝野新聞 | 1874 | 大新聞。民権派の政論新聞。立憲改進党の機関紙的存在となる |
読売新聞 | 1874 | 小新聞(社会の事件を庶民に伝える新聞)の元祖。東京で創刊 |
朝日新聞 (のち大阪朝日新聞) | 1879 | 大阪で創刊された小新聞。東京にも進出。 |
時事新報 | 1882 | 福沢諭吉が創刊。商工業者が支持。諭吉の「脱亜論」を掲載 |
自由新聞 | 1882 | 最初は馬場辰猪・田口卯吉らが中心。自由党の機関紙 |
東京朝日新聞 | 1888 | 『朝日新聞』の東京支局がおかれ、新聞を発行 |
大阪毎日新聞 | 1888 | 大阪実業界の有力者が創刊。『東京日日新聞』を買収 |
日本 | 1889 | 陸羯南が発行の日刊新聞。国民主義を掲げ、藩閥政府を攻撃 |
国民新聞 | 1890 | 徳富蘇峰が発行の日刊新聞。のち山県・桂系の御用新聞 |
万朝報 | 1892 | 黒岩涙香が東京で創刊。日露戦争前、幸徳秋水・堺利彦・内村鑑三が反戦論・非戦論を展開 |
二六新聞 | 1893 | 東京で秋山定輔により創刊。通俗性が強い |
平民新聞 | 1903 | 平民社の機関紙。再三、発禁処分をうける |