顧炎武( A.D.1613〜A.D.1682)
顧炎武は、明末、清初の学者。儒学の経典の中に確実な証拠を求めて実証的に研究を進め、『天下郡国利病書』120巻を著し社会の変遷を批評。『日知録』などを著し、清代中期に確立する考証学の基礎をきずいた。
顧炎武
実証主義を唱えた考古学の祖
明末、清初の学者。『天下郡国利病書』120巻を著し社会の変遷を批評。考証学の基礎を築く。
アジア諸地域の繁栄
東アジア・東南アジア世界の動向
明後期の社会と文化
儒学の面では、経典の中に確実な証拠を求めて実証的に研究を進めようとする黄宗羲(1610〜1695)や顧炎武(1613〜1682)などの学者が現れ、黄宗羲は『明夷待訪録』を、顧炎武は『日知録』などを著し、清代中期に確立する考証学の基礎をきずいた。
清代の中国と隣接地域
清代の社会経済と文化
考証学
清朝は漢人学者を優遇する反面、清朝政府や異民族に対する排斥思想を厳しく取り締まった。文字の獄や禁書はその現れであるが、そのため政治的論理を必要としない古典研究が栄えることとなった。このような学問を考証学といい、本来は儒教研究のひとつの方法であった。明末の黄宗羲(1610〜1695)や顧炎武(1613〜1682)は、陽明学が空論化したことに反対して、儒教経典中の文献学的批判をおこない、書かれた当時における文字の意味を明らかにし、経典本来の原義を理解しようとするものであった。こうした研究方法では、漢代の注釈が尊重されたことから、考証学は宋学に対して漢学ともいわれた。考証学は黄宗羲や顧炎武をついだ明末清初の閻若璩(1636〜1704)にいたって確立され、その対象も儒教経典のほか、歴史学・歴史地理学・金石学・音韻学などの各分野に広がった。その後、乾隆帝・嘉慶帝時代を中心に、戴震(1723〜1777)・銭大昕(1728〜1804)・段玉裁(1735〜1815)などの著名な考証学者が現れ、「乾嘉の学」と称されて全盛を迎えた。しかし清が厳しい思想・言論統制をおこなったこともあって、危険をさけてささいな考証に終始し、黄宗羲や顧炎武がめざした「経世致用」の面はしだいに失われた。
このような学問のための学問となった考証学に対し、乾隆時代の後半からは儒教経典の『春秋』に注釈書のひとつである『春秋公羊伝』を正統として、そのなかにみえる孔子( 古代思想界の開花)の思想を現在に実行しようとする公羊学派がおこった。『春秋公羊伝』を正統としこれを研究する公羊学は、すでに漢代にみられたが、その後はおこなわれず、清になって復活したものである。公羊学は江蘇省出身の荘存与(1719〜1788)によって始められ、清末の政治家で変法自強の推進者となった康有為に大きな影響を与えた。
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