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12世紀のアジア地図

高麗


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高麗こうらい (918年〜1392年)
朝鮮の王朝。首都は開京(現開城)。
918年、王建高句麗の後継と称して建国し、新羅百済を倒して統一した。
12世紀末に崔氏が政権を握り、13世紀には元に服属し、元の日本遠征に動員された。
14世紀に倭寇の侵攻もあって衰退し、李成桂のクーデターで滅亡した。儒教・仏教を取り入れると共に金属活字や青磁など高度な文化を有していた。

高麗

世界史対照略年表(1300〜1800)
/>世界史対照略年表(1300〜1800) ©世界の歴史まっぷ
高麗
東アジア世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

東アジア世界の形成と発展

東アジア諸地域の自立化

東アジア諸地域の変動

朝鮮では新羅末期の動乱で台頭した豪族の王建おうけん(太祖(高麗))が、918年、高麗を建国し、936年には朝鮮半島を統一して開城かいじょうに都をおいた。初期の高麗は、豪族の連合政権としての性格が強かったが、唐の制度を導入して中央集権化に努め、11世紀には内政も安定して最盛期を迎えた。12世紀後半、武臣ぶしんが貴族を倒して政権を握ると、各地で農民反乱が続発して、高麗王朝は動揺した。

武臣とは、家臣・家兵・門客などの私兵と主従関係を結んだ頭領のことで、強固に結束した私兵的軍事力を背景に、本来ならば武臣よりも高位の文臣を圧倒した。

この反乱の過程で旧来の貴族の権威は失墜し、12世紀末には崔氏さいし一門の強力な武臣政権が成立した。しかし、このころから契丹・女真が北辺に侵入を始め、13世紀半ばには連年のようにモンゴルが侵入をくりかえした。この窮状を打開できない崔氏政権への不満は高まり、1258年、クーデターで崔氏が倒されると、江華島で抗戦していた高麗国王はモンゴルに屈服した。高麗はモンゴルの属国となり、朝鮮本土にはダルガチ(達花赤占)が派遣されて民衆は苦しめられた。しかし、高麗軍の一部である三別抄さんべっしょうは、朝鮮半島南部の海岸地帯を転戦し、モンゴルに最期まで抵抗した。

三別抄の乱

別抄とは臨時編制の精鋭部隊の意味で、武臣政権を立てた崔氏政権によってのちに常備軍とされた。左夜さや別抄・右夜うや別抄・神義しんぎ別抄の3部隊からなり、これを総称して三別抄という。モンゴルが高麗に侵入すると、国王や崔氏政権とともに江華島を拠点として防戦に努め、1270年、元宗(高麗)が降伏して開城に移ったのちも抗戦を続けた。元宗(高麗)の解散令を拒否した三別抄は、王族の王温おうおんを擁立して、新たに珍島を本拠地に抵抗を続け、1271年モンゴル・高麗連合軍が珍島を攻略すると、耽羅だんら済州さいしゅう島)に移って朝鮮南岸を脅かした。1273年、1万2000の元・高麗連合軍の耽羅攻略によって平定されたが、翌1274年に元の第1回日本侵攻(文永の役)があったことから、三別抄の乱がフビライ・ハンの日本遠征を遅らせたといわれている。

三別抄の乱 – 世界の歴史まっぷ

高麗では、仏教が護国の宗教として厚く保護され、歴代の国王も深く帰依して各地に寺院を建立した。また、有力者によって土地や奴婢ぬひの寄進もおこなわれ、仏教は隆盛をきわめた。なかでも高麗版大蔵経こうらいばんだいぞうきょうは、崔氏政権がモンゴル退散を祈願して復刻したもので、8万1000余枚の版木からなっている。

美術工芸の分野でも製陶技術が進んで、高麗青磁がつくられた。唐初は北宋の青磁や白磁の影響をうけたが、やがて独自の青緑色や器形に発展した。また13世紀には、世界最古といわれる金属活字による印刷が行われ、この技術は、朝鮮王朝にも継承されおおいに発展した。

内陸アジア世界の変遷

内陸アジア
内陸アジア世界の変遷 ©世界の歴史まっぷ

モンゴル民族の発展

モンゴル帝国の成立

1259年には約30年にわたって抵抗してきた高麗も屈服し、モンゴル帝国は、東は中国北部から西は西アジア、ロシアにわたる大帝国となった。

モンゴル帝国の成立 モンゴル帝国の最大領域地図
モンゴル帝国の最大領域地図 ©世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

歴史

10〜11世紀

高麗の登場と安定

朝鮮の王朝。高句麗の再興という意識から高麗という国号となった。
918年、開城を根拠地に、王建が建国し、935年には新羅、936年に後百済を滅ぼして朝鮮半島を統一した。
国家機構は宋朝にならい、中央に三省六官制、地方に郡県制をしいた。
958年にには科挙制度を採り入れて官僚制を整備する中で、文武の特権階級が形成され、文班と武班の両班といわれる貴族階級が形成された。この両班制は次の李氏の支配する朝鮮王国にも継承される。高麗は中国の五代~宋代に朝貢しながら、契丹(遼)から国土を守って独立を維持し、11世紀には安定した時期を迎えた。
この間、朝鮮の儒教は朝鮮に深く根を下ろし、両班と共に長くその社会を規制する理念となっていった。

12世紀

武臣政権

12世紀には北方にツングース系の女真が台頭し、高麗の北辺を脅かすようになった。女真は1115年に金(王朝)を建国し、1125年に契丹を破り、さらに翌年、宋の都開封を陥れた。高麗は金の冊封を受けて服属することによって存続を図ったが、厳しい国際情勢の中で両班の武班が発言力を強め、国内政治の混乱もあって、いわゆる武臣政権が成立した。
その最初は、1170年、武臣である鄭仲夫が軍事クーデターを起こし国王毅宗を暗殺した事件であった。その後、高麗は約1世紀にわたって武臣が権力を握る時代が続いたが、その中で12世紀末の崔忠献さいちゅうけんから4代にわたって世襲された崔氏政権が最も長く続いた。同じころ、日本においても源頼朝が日本最初の武家政権である鎌倉幕府を建てている。

13世紀

モンゴルの支配

13世紀にはいるとモンゴル帝国の膨張が著しく、高麗もその侵攻を受けるようになった。1231年には猛烈なモンゴル軍の侵攻を受けて崔氏政権は首都開城を明け渡し、江華島に逃れた。
フビライは高麗に対する懐柔策をとり、高麗は都を開城に戻してその従属国となることに合意した。12701年には、モンゴルに対する武力抵抗を主張する武人らが三別抄の乱さんべつしょうのらんを起こし、珍島や済州島などで抵抗を続けたが、1273年にすべて鎮圧され、高麗はモンゴルの完全な支配を受けることとなった。
フビライは日本遠征(元寇)の兵力を高麗に依存したため、高麗にはその負担が重くのしかかった。1281年、2度目の日本遠征が失敗に終わり、元の日本遠征は中止となったが、その後も高麗は国力の回復に苦心せざるを得なかった。

14世紀

高麗の滅亡

14世紀に入ると、東アジア情勢が大きく変動し、元の中国支配に対する農民反乱である紅巾の乱が起こり、その混乱の中から1368年に朱元璋しゅげんしょうが明を建国した。
日本においても鎌倉幕府が1333年に滅亡し、南北朝の動乱という混乱期に入ったことを背景に、東アジア海岸一帯に倭寇といわれる海賊行為が頻発するようになり、高麗もその被害を受けたがそれを撃退する力が無くなっていた。
国内が元への忠誠を続けようとする親元派と、明に協力しようとする親明派に分裂したためでもあった。そのような中で、1392年に倭寇撃退に功績のあった李成桂が高麗を倒し、李氏朝鮮を建国することになる。日本では1368年に足利義満が将軍となり、1392年に南北朝の合一に至っている。

高麗の文化

高麗は、中国から儒教、仏教を学び、特に仏教では高麗版大蔵経が刊行されるなど国家的な保護が行われた。また金属活字の発明、高麗青磁の発達など独自の文化を生み出した。現在、朝鮮のことを英語で Korea というのは、高麗(コリョ)から来ている。高麗は世界に知られた国家だった。

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