大陸部の諸国の興亡 黎朝 清朝と東南アジア 16世紀末のアジア地図
16世紀末のアジア地図 ©世界の歴史まっぷ

黎朝


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黎朝 (1428〜1527・1532〜1789)
黎朝れいちょうは、明を破った陳朝の武将黎利れいり東京トンキン(ハノイ)で即位して開き、国号を大越国とした。明から独立したが改めて明と朝貢関係を結んだ。16世紀前半には一時臣下(莫氏ばくし)に国王位を奪われ、まもなく復興したが北部の鄭氏ていしと南部の阮氏げんしの南北に分裂した。

黎朝

アジア諸地域の繁栄

東アジア・東南アジア世界の動向

明朝の朝貢世界
北元 朝貢貿易 14世紀の東アジア 明(王朝) 明初の政治 アユタヤ朝 朝貢体制の動揺 明代のアジア(15世紀半ば) 地図
明代のアジア(15世紀半ば) 地図 ©世界の歴史まっぷ

ベトナムでは陳朝が国内の混乱で滅ぶと、永楽帝は陳朝復興を口実に軍を派遣してベトナムを一時支配した。しかしベトナム人は抵抗を続け、陳朝の武将であった黎利れいりは明軍を破ることに成功し、1428年ハノイ東京トンキン)において即位し(太祖 位1428〜1433)、黎朝れいちょう(1428〜1527, 1532〜1789)を開いて国号を大越だいえつとした。明から独立した黎朝ではあったが、改めて明と朝貢関係を結び、朱子学をはじめとして明の制度を取り入れ、支配を確かなものとしていった。

明朝の朝貢世界 – 世界の歴史まっぷ

南アジア・東南アジア世界の展開

大陸部の諸国の興亡
ベトナム

ベトナムは15世紀初め明の永楽帝に征服されてその支配下に入ったが、まもなく明軍を駆逐した黎利れいり(レ・ロイ 位1428〜1433)によってハノイに都をおく黎朝(1428〜1527、1532〜1789)が創始された。この王朝は10〜11世紀の前黎朝に対し後黎朝とも呼ばれる。15世紀後半の黎聖宗(位1460〜1497)の時代が最盛期で、内にあっては明朝にならって諸制度を整え、また耕地の公田制を採択し、外に対しては南方のチャンパーと戦ってこれを壊滅させ、さらに西方のラオスに進出するなど、国威を大いに高めた。しかし、彼の死後はふるわず、1527年に臣下の莫登庸ばくとうよう(位1527〜1529)に王位を奪われた。黎朝は1532年に復活するが、権力は弱く、国土の北半はハノイの鄭氏ていし東京とんきん)、南半はフエ(順化)の阮氏げんし広南クアンナム)の実権下におかれた。1771年に広南国の阮氏に対して反乱をおこしたタイソン党(西山党)は、阮氏を破り鄭氏を追い、清の乾隆帝と結んで勢力の回復をはかった黎朝を最終的に滅ぼし(1789)、一時ベトナム全土を支配した(タイソン朝(西山朝)1771〜1802)。しかし、内紛と指導者(阮文岳・阮文呂・阮文恵の3兄弟)の死によって弱体化し、1802年に広南国阮氏の一族阮福暎げんふくえいによって滅ぼされた。阮福暎(世祖嘉隆帝かりゅうてい 位1802〜1820)はフエに都をおく王朝(阮朝 1802〜1945)を創始し、国号をベトナム(越南)と定め、黎朝や清朝の制度にならって国制を整えた。しかし、阮福暎がタイソン軍との戦いに際してフランス人宣教師ピニョー・ド・ベーヌ(1741〜1799)の援助をうけたため、この王朝はフランスとの関係が深く、これがフランス領インドシナ成立の遠因となった。

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アジア・アメリカの古代文明

東南アジアの諸文明

東南アジアの古代文化

中国系の大乗仏教が伝わったベトナムでは、黎朝時代(15世紀〜18世紀)になると儒教・仏教・道教の3教の融合が進み、民衆の信仰として広くおこなわれた。諸島部へも仏教・ヒンドゥー教が伝わっている。仏教では大乗仏教が、ヒンドゥー教ではシヴァ派が有力であった。

東南アジアの古代文化 – 世界の歴史まっぷ

清代の中国と隣接諸地域

清朝と東南アジア

18世紀後半から19世紀の初めにかけてのインドシナ半島では、おおよそ今日の領域に重なる諸王朝の枠組みが形成された。これらの諸王朝は建国当初、清に朝貢してその支持をえようとしたが、服属関係は名目的なものであり、清朝もそれら諸国に対して実質的な支配をおよぼしてはいない。

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16世紀末のアジア地図 ©世界の歴史まっぷ
ベトナム

明朝を破った黎利れいりがハノイにて即位し黎朝(1428〜1527・1532〜1789)を開き、国号を大越国とした。しかし16世紀前半には一時臣下(莫氏ばくし)に国王位を奪われたが、まもなく復興した。しかし実権は北部の鄭氏ていしと、南部の阮氏げんしに握られ、黎朝は南北に分裂した状態となった。18世紀後半、西山党の乱せいざんとうのらんを契機に西山党の阮氏一族が北の鄭氏と南の阮氏を滅ぼし、ベトナムを統一して西山朝(1771〜1802)をたてた。西山党に滅ぼされた南部阮氏の一族である阮福暎げんふくえい(阮福暎)はタイへ亡命していた。ラーマ1世やフランス人宣教師(ピニョー・ド・ベーヌ)の支援をうけた彼は、1802年、西山朝を倒してベトナムを統一して即位(嘉隆帝かりゅうてい 位1802〜1820)し、フエを都とした越南えつなん(ベトナム)を開いた(阮朝 1802〜1945)。

清朝と東南アジア – 世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

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