3C政策
インド洋の支配確保のためのイギリス帝国主義政策の日本での呼称。3Cとはカイロ(エジプト)・ケープタウン(南アフリカ)・カルカッタ(インド)3都市の頭文字をさす。
3C政策
- インド洋支配のためのイギリスの帝国主義政策。呼称は、ケープタウン・カイロ・カルカッタを結ぼうとしたことに由来。対をなすドイツの3B政策と同じく、日本での呼称である。
- インド洋の支配確保のためのイギリス帝国主義政策の日本での呼称。3Cとはカイロ・ケープタウン・カルカッタ3都市の頭文字をさした。
帝国主義とアジアの民族運動
世界分割と列強対立
アフリカの植民地化
アフリカの植民地化を先導したのは、イギリス・フランス・ポルトガルであった。イギリスは1880年代の初めにエジプトを事実上の保護下におき、さらにマフディー派の抵抗を排除して1899年にはスーダンを征服した。アフリカ南部のケープ地域はオランダの植民地であったが、ウィーン会議でイギリス領となり、ケープ植民地がつくられた。オランダ人の子孫を主体とするブール人 Boers ❹ はイギリス支配を逃れて北方に移住し(グレート=トレック)、現地のアフリカ人の土地を奪いトランスヴァール共和国 Transvaal (1855〜1902)とオレンジ自由国 Orange (1854〜1902)をたてた。農業地域であった両国で19世紀後半に豊富なダイヤモンドと金が発見されると、イギリスは両国の併合を画策するようになった。ベルリン会議を通してドイツが南西アフリカを植民地にすると、イギリスは南アフリカから北方に隣接する中央アフリカ地域へも進出して現在のボツワナを保護領化し、さらにセシル=ローズ Cecil Rhodes (1853〜1902)はジンバブウェ地方なども支配下においた。ケープ植民地首相となったローズがトランスヴァールの併合に失敗して失脚したあと、イギリス本国の植民地相ジョゼフ=チェンバレンは、1899年、南アフリカ戦争(ブール戦争, 1899〜1902)をおこした。イギリスはゲリラ戦に苦しみながらも勝利してブール人の両国家を併合し、のちに南アフリカ連邦となる原型をつくりあげた。イギリスのケープタウンとカイロを結ぶアフリカ縦断政策は、インド支配(カルカッタ)とも結びつき3C政策と呼ばれる。
世界政策のもとでドイツの進めるバグダード鉄道を軸とした3B政策は、イギリスの3C政策やロシアの南下政策と対立し、列強の外交関係を変化させた。 参考:山川 詳説世界史図録 第2版: 世B310準拠