8月10日事件 (1792 テュイルリー宮殿襲撃)
1792年8月10日のフランス王権停止の革命をいう。ジャコバン=クラブとパリ市民は国王の廃位を要求し、パリ民衆と義勇兵がチュイルリー宮殿を攻撃、宮殿を警護していたスイス衛兵を惨殺、国王とその一族をタンプル宮に幽閉した。民衆の圧力に屈し、議会は王権を停止し、普通選挙による国民公会の招集が決定された。
8月10日事件
1792年8月10日のフランス王権停止の革命をいう。パリのサンキュロットと全国の愛国者の代表である連盟兵とが蜂起して、チュイルリー宮殿を襲撃、国王とその一族をタンプル牢獄に幽閉した。議会は王権の停止を宣言し、新憲法起草のために普通選挙による国民公会の招集が決定された。
欧米における近代社会の成長
フランス革命とナポレオン
立憲議会の成立と戦争の開始
1792年7月11日、立法議会は「祖国の危機」を宣言し、義勇兵を全国でつのった(祖国非常事態宣言)。フランス人のナショナリズムが高揚し、地方からパリに義勇兵がぞくぞくと結集した。
7月25日、プロイセン軍司令官ブラウンシュバイク公はコブレンツで宣言を発し、フランス国王に危害が加えられればパリ市を破壊する警告した。この宣言は王政の瓦解を早める結果となった。ジャコバン=クラブとパリの各地区の市民は国王の廃位を要求し、8月10日パリ民衆と義勇兵は、テュイルリー宮殿を攻撃し、宮殿を警護していたスイス衛兵は惨殺された。民衆の圧力に屈し、議会は王権を停止し、普通選挙による憲法制定議会すなわち国民公会の招集を布告した(8月10日事件)。ルイ16世はタンプル宮に幽閉された。
世界史B
10.近代ヨーロッパ・アメリカ世界の成立
46. フランス革命
憲法制定直前の1791年6月に国王一家は国外逃亡をはかり、ヴァレンヌ逃亡事件をおこして国民の信頼を失った。このため10月に成立した立法議会では共和派の勢力が増大し、立憲君主派のフイヤン派と、商工業ブルジョワを代表する共和主義者のジロンド派が対立した。革命の波及を恐れたオーストリア・プロイセンはピルニッツ宣言を出して革命への干渉を企てた。また国内で反革命の動きが活発になると、ジロンド派は勢力を強め、1792年の春に政権につくと、オーストリアに宣戦した。しかし、軍隊は士官に王党派が多数含まれていて戦意に欠け、オーストリア・プロイセン連合軍がフランス国内に侵入した。この危機に際し、立法議会は祖国非常事態宣言を発表し、義勇兵を募った。パリの民衆と全国から集まった義勇軍は、反革命を封ずるために、8月10日にテュイルリー宮殿を襲撃した(8月10日事件)。(革命の第2段階)
議会はただちに王権を停止し、新たな憲法をつくりなおすため男性普通選挙による国民公会の召集を決定した。国民公会は開会後ただちに共和制の樹立を宣言した。国民公会では、都市の民衆と結んだ急進的なジャコバン派(山岳派)が力を増し、1793年1月、ルイ16世を処刑した。(革命の第3段階)