アタウルフ
アタウルフ @Wikipedia

アタウルフ


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アタウルフ (?〜415年8月15日)。
西ゴート王 (在位 410~415) 。アタウルフとも呼ばれる。義兄弟アラリック1世の後継者。 412年西ゴート人を率いて南ガリアに侵入し,西ローマ皇帝ホノリウスと提携,異母姉妹 (ローマ皇帝テオドシウス1世の娘) と結婚し,ローマ文化の移入に努力した。

アタウルフ

年表

  • 410年
    ローマを掠奪したのち、西ゴート族の王アラリック1世はシチリアに渡るためメッシーナに向かって南方を目指した。おそらくシチリアからアフリカに渡るつもりだったと思われる。しかし船がないためこの計画は頓挫した。西ゴート族は再度北方を目指したが、同年イタリア半島南端でアラリックは死去した。
  • 412年
    アラリックには息子がなかったため、義理の兄弟であるアタウルフが跡を継いだ。食料に困窮した西ゴート族はティレニア海沿岸を北上し、アルプス山脈を越えてガリアに乱入した。ヨルダネスによれば、その通った跡はあたかもイナゴの大群が通り過ぎたかのようであったという。
  • ガリアに入ったアタウルフは、ローマ皇帝ホノリウスとの交渉に入った。ローマ略奪 (410年)の際西ゴート族に連れ去られたホノリウスの姉妹ガッラ・プラキディアは、仲介役を果たした。西ゴート族はガリアで食料と定住地を保証される代償として、ガッラ・プラキディアを解放し、また簒奪者であるヨウィヌスと戦うことが取り決められた。
  • 413年
    アタウルフはウァレンティア(現・ヴァランス)でヨウィヌスを攻撃してこれを捕らえ、ホノリウスの総督に引き渡した。しかし西ゴート族側がガッラ・プラキディアの引き渡しを拒んだため、協約は無に帰した。ホノリウスは食料の引き渡しをとりやめ、困窮した西ゴート族が南ガリアを去るだろうと見込んでいた。しかし西ゴート族は、マッシリア(現・マルセイユ)攻防戦でアタウルフが負傷しながらも、ナルボ(現・ナルボンヌ)、トロサ(現・トゥールーズ)、ブルディガラ(現・ボルドー)を征服した。
  • 414年
    アタウルフはガッラ・プラキディアとローマ式の結婚をして、ゴート人やローマ人を驚かせた。この結婚により、ローマ帝国をゴート族のものにしようという遺志がないこと、むしろゴート族の力で帝国を刷新しようという王の意志が示された。オロシウスによれば、この意志は王妃の説得によるものだったという。同年テオドシウスという名の息子が生まれたが、この子は生後間もなく死去した。
  • プラキディアはマギステル・ミリトゥムであったコンスタンティウス3世(406年~416年)の許嫁であったため、この結婚を機にコンスタンティウスはアタウルフを攻撃し始めた。アルルを根拠地に南ガリアの港湾を封鎖されたため、アタウルフは先王アラリックに倣い、プリスクス・アッタルスの呼びかけに応える形でローマ皇帝に即位を宣言した。イタリア半島南端に拠点をもつことには成功した。
  • 415年
    しかし配下の西ゴート族の困窮が甚だしかったため、アタウルフはスペインに向けてガリアを去らざるを得なくなった。しかし412年にアタウルフが処刑したサルスの部下の復讐にあい、同年晩夏にバルキオ(現・バルセロナ)で暗殺された。

Wikipediaより

アタウルフが登場する作品

ザ・ローマ帝国の興亡 第六話 西ローマ帝国の滅亡 ゴート族 ローマ帝国 アラリック1世
ザ・ローマ帝国の興亡 第六話 西ローマ帝国の滅亡

ザ・ローマ帝国の興亡 第六話 西ローマ帝国の滅亡 – 世界の歴史まっぷ

なぜ西ゴート族はローマ略奪を行ったのか。
なぜ西ローマ帝国は崩壊していったのか。

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