インダス文明
インダス川流域を中心とする広大な地域に、紀元前2300年〜紀元前1700年ころの青銅器時代に栄えた都市文明。この文明の圏内には大小の都市遺跡が存在するが、中流域のハラッパーと下流域のモヘンジョダロが他を圧倒する規模をもっている。同時代のどの文明にもみられない整然とした都市計画のもとに建設されていた。
- 道具: 青銅器の使用
- 文字: インダス文字
- 生産経済: 氾濫農耕による小麦の生産
- 交易: メソポタミアと海上交易
- その他: 政治体制不明。神殿・墓は存在しない。
インダス文明
アジア・アメリカの古代文明
インドの古代文明
インダス文明
インダス川流域を中心とする広大な地域に、紀元前2300年〜紀元前1700年ころ青銅器時代の都市文明が栄えた。これをインダス文明、あるいは最初に発見された遺跡の名にちなみハラッパー文明と呼ぶ。この文明の圏内には大小の都市遺跡が存在するが、中流域のハラッパーと下流域のモヘンジョダロが他を圧倒する規模をもっている。
両都市の設計は共通しており、同時代のどの文明にもみられない整然とした都市計画のもとに建設されていた。市街区には碁盤の目状に大小の道路がつうじており、舗装された街路に沿って焼煉瓦造りの堅固な家屋が並んでいる。各家屋は井戸と浴室をもち、汚水は排水口によって街路わきの下水溝へと流しだされた。市街区の西北部には小高い城塞部が存在し、ここに集会堂や穀物倉などの公共建造物が集中している。そうした建造物のなかでも、モヘンジョダロ遺跡城塞部の中央近くにおかれた大浴場は重要である。その浴槽は縦横12×7.5m, 深さ2.5mあり、宗教的な沐浴のために使用されたものらしい。
青銅・金・銀・宝石などの発掘品から、これらの都市の住民が、文明圏内の諸都市のほかメソポタミアなど遠隔地との交易を営んでいたことが分かる。商人たちはインダス河口から海岸沿いにペルシア湾の入り口にいたり、この地でメソポタミア方面から運ばれてきた商品との交換を行っていたらしい。都市遺跡からは象形文字や動物模様を刻んだ滑石制の印章(インダス印章)が多数発見されている。この文字はまだ解読されていないが、ドラヴィダ系言語とみる説が有力である。そのほか、土器、青銅器、彩文土器、土偶、青銅小立像など住民の生活を伝える遺物が出土している。しかし武器類は貧弱であり、発見される数もあまり多くない。また、巨大な王墓や王の彫像など、専制王権の存在を誇示する遺物も存在しない。
ここでおこなわれていた政治の形態については明らかではない。ある学者は大浴場の存在から宗教的権威を背景とした支配であったと考え、別の学者は立派な市街地の存在から有力市民の共同統治であったと考えている。
この文明の滅亡の原因については、かつて新来のアーリヤ人に破壊されてとする説が有力であった。しかしその後の調査で、文明の衰退とアーリヤ人移住との間に200年ほどの開きがあることがわかり、この説は否定された。衰退は広大な文明圏において徐々に進行したようである。その原因については、気候の乾燥化、耕地の不毛化、交易活動の不振など諸説が考えられるが、不明な点が多い。いずれにせよ、アーリヤ人が到来したころ都市文明は終末の段階にあった。こうして都市は消え去ったが、当時の文化のなかには後世に継承されたものも多い。たとえば、大浴場はのちのヒンドゥー教における沐浴の風習と関係があるとみられ、また印章に刻まれた図柄などから知られる地母神・獣類の神(シヴァ神の原型か)・牡牛・樹木・生殖器の崇拝は、今日のヒンドゥー教徒の間でも広く行われている。