エル・シッド (El Cid)
A.D.1045〜A.D.1099
ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール、通称「エル・シッド」。11世紀後半のレコンキスタで活躍したカスティーリャ王国の貴族。エル・シッドをたたえた叙事詩「わがシッドの歌」はスペイン文学で現存する最古の作品。
エル・シッド
生涯
- エル・シッドは、サンチョ2世(カスティーリャ王)付きの小姓としてカスティーリャの王家に育てられた。
1065年にフェルナンド1世(カスティーリャ王)が死去。その領地は息子達に分割相続された。サンチョ2世(カスティーリャ王)はカスティーリャ王国を受け継いだが、長男として全ての領地を受け継ぐべく戦争を開始した。弟達を打ち破り領土の再統一を行い、シッドもサンチョ2世(カスティーリャ王)の下で活躍する。しかし、サンチョ2世(カスティーリャ王)は1072年に暗殺されてしまう。 - サンチョ2世(カスティーリャ王)の暗殺については、弟アルフォンソ6世(カスティーリャ王)とその姉ウラカが首謀者とも言われるが定かではない。アルフォンソ6世が王位を継ぐと、シッドはカスティーリャから追放された。
- アルフォンソによる追放の後も、エル・シッドを慕う多くの兵士達が集った。シッドは当時まだ色が付いていなかったバレンシアの征服に乗り出し(バレンシアがアルフォンソの所領から遠かったことも一因であるらしい)、1094年にバレンシアをイスラム教徒から奪回する。
- バレンシア平定後、シッドは幽閉されていた妻子を呼び寄せた。その後5年間の統治を経て亡くなっている。
- 生きている時代にすでにシッドを歌う叙事詩が作られ始め、シッドは城でその歌を満足げに聴いていたという文献資料もある。
- 叙事詩のひとつによれば、死期を悟ったシッドは自ら食を絶ち、死体を保存できるように準備をし、数十年以上、生きた当時の姿のまま台座に座っていたという。そしてその台座上の姿のまま、愛馬バビエカに乗せられて巡行したと述べられている。それでも、ついにミイラの鼻がもげてしまったことをきっかけに、バビエカの墓のすぐそばに埋葬されたという。
- 1099年のシッド他界後、シッドの妻ヒメナはその後を継いで統治を行うが、数年でその領地は失われた。以後100年以上に渡ってキリスト教徒がバレンシアを奪還することは出来なかった。
参考 Wikipedia