クリュニー修道院 (サン=ピエール・エ・サン=ポール・ド・クリュニー修道院)
10世紀頃からヨーロッパで聖地巡礼とレコンキスタを積極的に奨励した修道院改革運動の中核を担った修道院。
- 910年: ブルグント王国(現フランス・ブルゴーニュ地方)に、アキテーヌ公ギヨーム1世により創建。
- 10世紀〜11世紀: 修道院改革運動
- 18世紀: フランス革命時に建物は破壊、蔵書などの貴重な文化遺産が失われた。
クリュニー修道院
概要
910年に教皇以外の一切の権力の影響を受けない自由修道院として設立され、ヌルシアのベネディクトゥスの修道精神に厳格に従うことで、西ヨーロッパに広く影響を与えた。
中世ヨーロッパに、クリュニー改革とよばれる修道会改革運動の中心となり、最盛期には管轄下におく修道院1200、修道士2万を数えた。またその典礼の壮麗なことでも知られた。
927年から1156年がその最盛期にあたり、5人のきわめて高名で影響力のある修道院長を輩出した。その最後にあたるペトルス・ヴェネラビリスはクレルヴォーのベルナルドゥスからその修道院の華美を非難された。このころからクリュニーの凋落が始まってゆく。すなわち、簡素で素朴な自給自足的生活を重んじるシトー会系の修道士などから批判を受けることになった。
フランス革命時
1787年頃からフランス王国ブルボン朝の王権に対する貴族の反抗に始まった擾乱は、1789年から全社会層を巻き込む本格的な革命となり、政治体制は絶対王政から立憲王政(1791~1792)ルイ16世処刑、そしてフランス第一共和政(1792年〜1804年)の国民公会、総裁政府、統領政府へと移り変わった。さらに1794年のテルミドール反動ののち退潮へ向かい、1799年にナポレオン・ボナパルトによる第一帝政樹立に至り、ナポレオンの失脚後ブルボン王朝が復活した(フランス復古王政)。
1789年、パリの民衆のバスティーユ牢獄襲撃。
1790年、ユダヤ人の権利を全面的に認めた。
1792年5月から1794年10月まで、キリスト教は徹底的に弾圧された。当時カトリック教会の聖職者は特権階級に属していたが、革命勃発以来、聖職者追放と教会への略奪・破壊がなされ、1793年11月には全国レベルでミサの禁止と教会の閉鎖が実施され、祭具類がことごとく没収されて造幣局に集められ、溶かされた。こうして、クリュニー修道院やサント=ジュヌヴィエーヴ修道院などの由緒ある教会・修道院が破壊されると共に蔵書などの貴重な文化遺産が失われた。破壊を免れた教会や修道院も、モン・サン=ミシェル修道院のように、牢獄や倉庫、工場などに転用された。
1801年にナポレオンがローマ教皇とコンコルダートを結び和解するまでカトリック教会への迫害は続いた。
クリュニー修道院はフランス革命によって破壊され放棄された後に、他の建造物の石材供給源になってしまったため、聖堂南側の翼廊の一部だけが当時の姿を残しているのみである。サン・ピエトロ大聖堂が設立されるまではヨーロッパで最大の宗教建築物であった”クリュニーIII”の面積は10%程度が残っているにすぎない。なお、残された翼廊の一部は国立高等工芸学校(Arts et Métiers ParisTech、旧ENSAM)の校舎として使われている。