バフマニー朝 サイイド朝 トゥグルク朝 デリー・スルタン朝地図
デリー・スルタン朝地図 ©世界の歴史まっぷ

サイイド朝


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サイイド朝( A.D.1414〜A.D.1451)
デリー・スルターン朝の4番目のトルコ系イスラーム王朝。首都はデリー。ティムールの部将ヒズル・ハーンがトゥグルク朝にかわりデリーで建国。サイイドとは、ムハンマドの血筋にある者の意味。ティムール朝シャー・ルフの保護を受けていたが、その死後衰え、1451年ロディー朝にかわった。

サイイド朝

イスラーム世界の形成と発展

イスラム王朝 17.イスラーム世界の発展 イスラーム世界の形成と発展
イスラーム世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化

デリーのムスリム政権

1206年に、奴隷出身の部将クトゥブッディーン・アイバクが、君主であるゴール朝シハーブッディーン・ムハンマドの暗殺事件に乗じて同王朝のインド領を奪い、デリーを都とするインド最初のイスラーム王朝を創始した。後継者にも奴隷出身者が多かったため、この王朝は奴隷王朝と呼ばれる。
その後の320年間に、デリーにはハルジー朝トゥグルク朝サイイド朝ロディー朝と、ムスリム王朝が交替した。奴隷王朝の時代にアッバース朝のカリフからスルタンの称号をえたため、これら5王朝はデリー・スルターン朝と総称される。
ロディー朝がアフガン系であるほかは、いずれもトルコ系の王朝である。

デリーのスルタンたちによる征服事業は着実に進められた。そして14世紀前半、ハルジー朝のアラー・ウッディーン・ハルジーからトゥグルク朝のムハンマドに至る時代に、南インドの殆どを支配下におさめた。しかし14世紀頃からデリーの政権は弱体化し、インド各地でヒンドゥー教あるいはイスラーム教を奉ずる地方政権が独立した。
1398年のティムールによる北インド侵寇とその後の混乱でトゥグルク朝が倒れると、サイイド朝・ロディー朝がそのあとを継いだが、いずれも短命で、デリーの政権はかつての隆盛を取り戻すことはできなかった。
ハルジー朝 13世紀後半のインド地図 デリーのムスリム政権
13世紀後半のインド地図 ©世界の歴史まっぷ

デリーのムスリム政権 – 世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

歴史

  • 1398年末、有能な統治者に恵まれず弱体化したトゥグルク朝は、ティムールの侵入により大混乱に陥り、無力化していた。1405年、ティムールが明遠征の途上、中央アジアのオトラルで亡くなると、ティムール帝国は内紛を起こし、それを制したのはティムールの4男・シャー・ルフであった。
  • パンジャーブ総督のヒズル・ハーンはシャー・ルフに従って、1413年には王家が断絶して大混乱していたトゥグルク朝に攻勢をかけ、1414年にはデリーを占領してトゥグルク朝を滅ぼした。そして新たに建国したのが、サイイド朝である。
  • しかし、その支配はデリーの周辺のみの弱体な王朝であり、周りをジャウンプル・スルターン朝やマールワー・スルターン朝、メーワール王国に囲まれて、王権は不安定だった。また、ヒズル・ハーンはティムールの代理人をもって任じ、スルターンを称することはなかった。ヒズル・ハーンの治世では、トゥグルク朝の貨幣がそのまま鋳造されて使われ、ヒズル・ハーンの子ムバーラク・シャーの時代もシャー・ルフの代理とし貢物を送り、代わりに礼服、儀式用の日傘が送られた。
  • 3代目のムハンマド・シャーは無能な人物で王朝は急速に衰退し、パンジャーブのローディー族の半自立傾向が目立ちはじめる。
  • 4代目のアラー・ウッディーン・アーラム・シャーのときに宰相のハミード・ハーンが権力を握ったが、1451年にバフルール・ローディーによって投獄され、サイイド朝は滅亡した。
  • ここにローディー朝が成立することになったが、アーラム・シャーは1478年まで年金を受け取って生活した。

歴代君主

  1. ヒズル・ハーン(在位:1414年 – 1421年)
  2. ムバーラク・シャー(サイイド朝)(在位:1421年 – 1434年)(ヒズル・ハーンの子)
  3. ムハンマド・シャー(サイイド朝)(在位:1434年 – 1445年)(ムバーラク・シャーの弟の子)
  4. アラー・ウッディーン・アーラム・シャー(在位:1445年 – 1451年)(ムハンマド・シャーの子)

参考 Wikipedia

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