スペイン・トラスタマラ朝( A.D.1479〜A.D.1516)
1469年、トラスタマラ家のアラゴン王子フェルナンド(フェルナンド2世(アラゴン王))とイサベル1世(カスティーリャ女王)が結婚、1479年に両国が合併して、スペイン王国が成立した。イサベルとフェルナンドは同権の王として二人で統治(カトリック両王)してから、両王の娘フアナ(カスティーリャ女王)の長男であるハプスブルク家のカルロス1世(スペイン王)(カール5世(神聖ローマ皇帝)が1516年に即位してスペイン・ハプスブルク朝が成立までの王朝。
スペイン・トラスタマラ朝
歴代国王
- イサベル1世(カスティーリャ女王) (1474〜1504):フアン2世(カスティーリャ王)の子
- フェルナンド2世(アラゴン王)(1475〜1504):フアン2世(アラゴン王)の子
- フアナ(カスティーリャ女王)(1504〜1555):イサベル1世(カスティーリャ女王)とフェルナンド2世(アラゴン王)の子
参考 Wikipedia
ヨーロッパ世界の形成と発展
西ヨーロッパ中世世界の変容
スペインとポルトガル
すでにカタルーニャ・バレンシアとの連合王国を形成していたアラゴン王国は、その後地中海に向けて発展、13世紀後半にシチリア島、14世紀にサルデーニャ島、そして15世紀前半にナポリ王国を征服して絶頂期に達したが、国内では貴族や都市との抗争に苦しんだ。
一方、カスティリャ王国では14〜15世紀をつうじて王権が強化され、貴族との対立が激化した。また、小農経営を無視した牧羊業の推進と牧羊者組合(メスタ)の保護は農業の荒廃をもたらし、農民一揆や反ユダヤ暴動を引き起こした。
1469年アラゴン王子フェルナンド(フェルナンド2世(アラゴン王))とイサベル1世(カスティーリャ女王)が結婚、1479年には両国が統一されてスペイン王国が誕生すると、混乱は次第に収拾に向かった。
そして1492年、両国によりグラナダは陥落( 西方イスラーム世界)し、レコンキスタは終了した。同時にクリストファー・コロンブスによりアメリカ大陸への道が開かれ、スペインは西ヨーロッパの強国になっていく。
ヨーロッパ主権国家体制の展開
ヨーロッパ主権国家体制の形成
スペイン絶対王政の確立
イベリア半島では、1479年にカスティリャ王国とアラゴン王国が合併して、スペイン王国が成立した( スペインとポルトガル)。この国では、フェルナンド5世(カスティーリャ王)(フェルナンド2世(アラゴン王))とイサベル1世(カスティーリャ女王)(「カトリック両王」という)のもとで、封建貴族に対抗して都市と手を結んだ王権が強力になった。
以後歴代国王は、ローマ・カトリック教会の勢力をも背景に、異端審問など厳しい宗教政策を展開した。1492年には、最後に残ったイスラーム教徒の拠点、ナスル朝の首都グラナダを陥落させ、1492年にはユダヤ人、1502年にイスラーム教徒を、それぞれ追放した。数世紀におよんだ国土回復運動(レコンキスタ)が、ここで完成したということができる。
他方ポルトガルは、早くも12世紀にレコンキスタの過程でカスティリャから独立し、13世紀にはレコンキスタを完了した。15世紀初めにはエンリケ航海王子のもとで、アフリカのセウタを占領し、アフリカ西海岸を中心に対外進出に乗りだしていた。
グラナダ陥落によってようやくレコンキスタを完了したスペインは、このポルトガルとともに1493年、教皇名による分解線を設定、翌年、教皇抜きでこれを修正したトルデシリャス条約によって世界の2分割をはかった。さらにこうしてスペインは、対外的にも広大な植民地を獲得して世界帝国となっていった。しかし国内的には、スペインはカスティリャ・バレンシア・アラゴン・カタルーニャなど、地方分権的な性格がきわめて強く、国民国家としての統合は十分ではなかった。