チャガタイ (1185年頃〜1242年)
チンギス=ハンの次男。金討伐や大西征に従軍し、オトラル攻略などで戦功を挙げたことから、西遼の旧領を与えられ、後のチャガタイ・ハン国の祖となった。
長兄ジョチとは、ジョチの出生の疑惑などをめぐって険悪な仲であった。チャガタイ自身が激しい気性と一本気な性格の持ち主であったため、一族の和を重んじる父チンギスから後継者候補としては除外されていたという。しかし、法に対して厳格な一面があったため、それを父に見込まれてモンゴル帝国の法律・ヤサの管理を任され、「ヤサの番人」の異名を取った。
チャガタイ
モンゴル宗室の系図
生涯
父に従って金討伐(第一次対金戦争)や大西征(チンギス=ハンの西征)に従軍し、オトラル攻略などで戦功を挙げたことから、西遼の旧領を与えられ、後のチャガタイ・ハン国の祖となった。そしてこの地を治めるため、モンゴル帝国の法律であるヤサの遵守を強制したが、モンゴルの風習とこの地の風習は相反するものが多く、ヤサを強制された民衆はチャガタイを大いに恨んだという。
弟・オゴタイ=ハンとは仲が良く、父チンギスの死後はその遺言に従ってオゴタイ=ハンの即位を支持した。このことから、第2代皇帝となったオゴタイ=ハンも兄であるチャガタイを大いに尊重し、政策決定の場においては常に相談相手としたという。1242年、前年に没したオゴタイ=ハンの後を追うように没した。
チャガタイは厳格な人物として知られ、それを示す逸話がある。オゴタイ=ハンと宴席で酒を飲んでいたとき、酒の酔いもあったのであろうが、チャガタイはオゴタイ=ハンのプライドを傷つける行為をしてしまった。チャガタイにとってオゴタイ=ハンは、弟といえども主君である。そのため、チャガタイは自らを罰するようオゴタイ=ハンに求めたが、オゴタイ=ハンは兄を罰することはできなかった。そのため、チャガタイ自らで自らを罰したという。他人にも厳格であったが、自分に対しても厳格であったということであろう。