トゥグルク朝 (1320年〜1413年または1414年)
デリー・スルターン朝の3番目の王朝であるトルコ系のイスラーム王朝。首都はデリー(一時的にダウラターバード)。ハルジー朝が内紛で混乱したすきにそれにかわって実権を握った。トゥグルク朝もハルジー朝と同じくトルコ系ムスリムで、開墾の奨励や潅漑施設の拡充などに努め、イスラーム政権の安定を図った。
トゥグルク朝
イスラーム世界の形成と発展
インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化
デリーのムスリム政権
1206年に、奴隷出身の部将クトゥブッディーン・アイバクが、君主であるゴール朝のシハーブッディーン・ムハンマドの暗殺事件に乗じて同王朝のインド領を奪い、デリーを都とするインド最初のイスラーム王朝を創始した。後継者にも奴隷出身者が多かったため、この王朝は奴隷王朝と呼ばれる。
その後の320年間に、デリーにはハルジー朝、トゥグルク朝、サイイド朝、ロディー朝と、ムスリム王朝が交替した。奴隷王朝の時代にアッバース朝のカリフからスルタンの称号をえたため、これら5王朝はデリー・スルターン朝と総称される。
ロディー朝がアフガン系であるほかは、いずれもトルコ系の王朝である。
1398年のティムールによる北インド侵寇とその後の混乱でトゥグルク朝が倒れると、サイイド朝・ロディー朝がそのあとを継いだが、いずれも短命で、デリーの政権はかつての隆盛を取り戻すことはできなかった。
歴史
- ハルジー朝のアラー・ウッディーン・ハルジー死後、後継者争いの混乱が続き、1320年に地方総督だったギヤースッディーン・トゥグルクが、ハルジー朝の内紛を制してトゥグルク朝をたてた。
- 1323年には息子ウルグ・ハーンをデカン、
- トゥグルク朝第2代スルターンのムハンマド・ビン・トゥグルクは、王子時代にデカン高原・南インドに遠征し、カーカティーヤ朝とパーンディヤ朝の都マドゥライを征服し、ホイサラ朝を再服従させた。その結果、トゥグルク朝の支配は、カシミール、ラージャスタン(北インド)、オリッサとマラバール(いずれもベンガル湾岸)などのほぼインド全域に及んだ。ムハンマド(トゥグルク朝)も潅漑などの公共事業を行い、農業の保護を行ったが、反面、都をデリーからデカン高原に新都ダウラターバード(富裕の都の意味)を建設しようとしたり、中央アジアへの遠征を計画して、農民への課税を強化したため、その征服地で反乱が相次ぐようになった。
- トゥグルク朝は一時、全インドに近い領域を支配したが、ムハンマドの改革と失敗で政治が乱れ、各地に政権が分立しベンガル地方、デカン地方から南インドの版図を失った。
1334年に南インドのマドゥライで地方長官ジャラールッディーン・アフサーン・シャーが独立してマドゥライ・スルターン朝を樹立
1336年にハリハラ1世とブッカ1世が独立して南インドでヴィジャヤナガル王国樹立
1342年にはベンガルの地方長官が独立しベンガル・スルターン朝樹立
1347年にはデカンのグルバルガでアフガン人傭兵出身の地方長官、アラー・ウッディーン・ハサンが独立してバフマニー朝を樹立
1394年には王朝内で内紛が起こり、地方長官がガンジス川中流域で独立してジャウンプル・スルターン朝が成立した。 - 1398年ティムール朝がインド遠征に乗りだしデリーに入城すると、ドゥグルク朝第8代スルタンナーシルッディーン・マフムード・シャーは逃亡し、デリー市民の多くが殺戮された。ティムール軍は奪った財宝と多数の捕虜を伴い、わずか15日後にはサマルカンドに引き上げた。ティムールはインドを恒常的に支配する意図はなく、デリーは部将ヒズル・ハーンがティムールの代官として統治した。
- 1401年にマールワー・スルターン朝が独立。
1407年にグジャラート・スルターン朝が独立。 - 王家は1413年にナーシルッディーン・マフムード・シャーが死去することで断絶し、宮廷を制して権力を握ったのは重臣のダウラト・ハーン・ローディーであるが、1414年にティムールの代官であったヒズル・ハーンによって完全に滅ぼされ、サイイド朝が成立した。
トゥグルク朝スルタンの善政と残虐
トゥグルグ朝は外来のイスラーム王朝が本格的なインド統治を行う為にさまざまな政策を実施した。イスラーム中心地帯から人材を集めた。彼ら外国人はイッズィーヤ(ʿazīz/aʿizza,ʿizzīya)と呼ばれた。イブン・バットゥータもイスラーム先進地域出身人材として、法官として約8年間トゥグルグ朝に仕えている。第二代スルターン・ムハンマドは、エジプトのマムルーク朝に使節を派遣し、マムルーク朝の庇護下にあったカリフから、カリフの代理としてインドを統治する信任状を取得し、統治の権威付けを試みている。
1334~1340年にアラブの大旅行家イブン・バットゥータがインドに来て、トゥグルク朝のスルタンに仕え、詳細な記録を『三大陸周遊記』に残している。それには、彼の仕えたスルタンのムハンマド=イブン=トゥグルクの善政と、その反面の想像を絶する残虐な刑罰について述べている。
インドのスルターンは、謙遜、公平であり、貧民をあわれみ、底なしの太っ腹を示しながら、人の血を流すことが何よりも好きである。王宮の門前に殺された人々の横たわっていないことは、まず珍しい。わたくしは、その門前で人を殺し、その屍をさらすさまをいやというほど見せられた。ある日、参内しようとすると、わたくしの馬が怯えた。前方を見ると地上に白い塊があった。「何か、あれは」というと、同行の者が「人間の胴体です。三段に斬ってあります」と答えた。
参考 世界の窓
歴代君主
- ギヤースッディーン・トゥグルク(在位:1320年 – 1325年)
- ムハンマド・ビン・トゥグルク(在位:1325年 – 1351年)
- フィールーズ・シャー・トゥグルク(在位:1351年 – 1388年)
- ギヤースッディーン・トゥグルク2世(在位:1388年 – 1389年)
- アブー・バクル・シャー(在位:1389年 – 1390年)
- ナーシルッディーン・ムハンマド・シャー(在位:1390年 – 1394年)
- アラー・ウッディーン・シカンダル・シャー(在位:1394年)
- ナーシルッディーン・マフムード・シャー(トゥグルク朝)(在位:1394年 – 1413年)
- ナーシルッディーン・ヌスラト・シャー(在位:1394年 – 1398年)(上記と併立)
- ダウラト・ハーン・ローディー(在位:1413年 – 1414年)
参考 Wikipedia